2009年12月21日

奈倉洋子 『グリムにおける魔女とユダヤ人』

先週紹介した映画(DVD)、「ブラザーズ・グリム」との関連で、
お薦めの本を一冊。

奈倉洋子『グリムにおける魔女とユダヤ人 ――メルヒェン・伝説・神話』
鳥影社、2008年。

     ★★★

メルヘンには悪役がつきもの。
その悪役のイメージは、多くの場合、現実の世の中から素材やモデルを得て、練り上げられています。

魔女やユダヤ人が悪役として現れるグリム童話の世界には、
当然ながら、現実に行われた魔女狩りやユダヤ人迫害の歴史が、くらい影を落としているわけで。

この本は、副題に示唆されているように、
グリムのメルヒェン集(いわゆる『グリム童話集』)をはじめ、
彼らの編纂した『ドイツ伝説集』、および兄ヤーコプの著書『ドイツ神話学』を対象に、
そこでの魔女やユダヤ人についての記述のありようと、背景となる歴史との関係に迫るものです。

記述は懇切丁寧にして平易。 

以前、子供に「魔女って、どうして悪い人ばっかりなの?」と問われ、
一瞬、答えに詰まったことがあります。
(「いや、良い魔女もいるんだよ」と答えたものの、
これは本質的な答えではないわけで。)

同じような疑問を子供の頃に持った方。
あるいは、
そういえばどうしてだろう、と、大人になったいま改めて考えてしまう方。

考えるヒントを与えてくれるものとして、
本書を一読されてみてはいかがでしょうか。

     by 堀マサヒコ

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2009年12月14日

ブラザーズ・グリム

          brothers_grimm.jpg

テリー・ギリアム監督、2005年の作品。

マット・デイモン演じる兄ウィルと、ヒース・レジャー演じる弟ジェイコブ。

グリム童話で知られる実在の兄弟は、
兄がヤーコプ、弟がウィルヘルム。

この逆転は、この物語が一種のパロディであることの印でしょうが、
通して見てみるとこれが、
単にパロディという言葉では括りきれないような作品。

童話作家として、というよりは民話採集者(民俗学者)としての彼らの仕事の意味を
ドイツ、ひいてはヨーロッパの文化史的・精神史的な観点から捉えた上で、
伝記的事実とはかけ離れたファンタジックな物語の中に彼らを置きなおす、
という、かなり手の込んだ遊びが認められます。

キリスト教と啓蒙主義の双方から忌避され、
「あってはならないもの」とされてしまった精霊信仰(アニミズム)と魔術的世界観。

その象徴である「呪われた森」の中で通用するのは、
この作品では支配者たるフランス人が代表しているところの「書かれた理性」の文化ではなく、
狩人の娘、アンジェリカ(レナ・ヘディ:下のポスター写真、右)が代表しているところの、口頭伝承による民俗知識。

つまり、まさに実在のグリム兄弟が掘り起こそうとしたものです。

          brothers_grimm_ver6.jpg

兄弟がアンジェリカと協力して森を呪いから解く(=森を守る)行為は、
見た目上は単なる化け物退治に見えますが、
実在のグリム兄弟がいわばペンによって行った闘いの、
ちゃんとした表現になっている。

公開から4年も経って言うのもなんですが、
テリー・ギリアムってやっぱりすごいじゃん、と思いました。

ちなみに村に平和が戻ってきた、というラストのチャプターの冒頭、
映し出される十字架は、
クロスの中央部に円が加わった、ケルト十字を思わせる形。

ひょっとすると、作品中の悪役、フランス人たちが濃厚に継承するローマ(カトリック)的キリスト教の伝統とは異質の、
よりアニミズム的傾向をもつケルトのキリスト教(※)に対する積極的評価を込めたのかもしれません。

一般的なケルト十字そのものズバリじゃないので、
これはちと、読み込み過ぎかもしれませんが。。。。
(この辺り、ご存知の方いらしたらご教示ください)

エンディング近く、喜びに沸く村人が奏で、踊る音楽が、
ユダヤの伝統音楽クレズマーなのも(これもたぶん、だけど)、
それをバックに交わされるグリム兄弟の会話と相まって、
色々考えさせられます。

  弟:「現実の世界は厳しい。
     故郷ももたず、国家を敵に回し、名も成していない。
     ・・・良い名前なのに」

  兄:「最高の名前だよ!」

※  アリスター・マクグラスは、
    古代におけるケルト的キリスト教の神学的特質について、
    「神を知る手段としての自然界の重要性を強調した」点に注目しています。
    (『総説・キリスト教』キリスト新聞社、2008年、378頁)

     by 堀マサヒコ


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2009年11月23日

Non ci resta che piangere

翻訳業をやっております、こにりょ、です。
この前「Non ci resta che piangere」(1984年)というイタリアのコメディ映画をDVDで観ました(タイトルは訳すと「後はもう泣くしかない」)。マッシモ・トロイージとロベルト・ベニーニの二人の主演・脚本・監督作です。日本未公開だけれど、イタリアでは知らぬもののいないほどの大人気映画だそうです。

non_ci_resta.JPG

現代の二人の男が15世紀のイタリアのフィレンツェにタイムスリップしてドタバタしつつ、成り行きでコロンブスの出航を邪魔することに……と、まあストーリーは一応あるのですが、基本は行き当たりばったりの展開で、二人で漫才のような会話をしながら、延々とコントが続けられるといった感じの、力の抜けた妙に可笑しい映画でした。

怪しいスペイン女兵士に命を狙われ、スペイン人のふりをしようといい加減なスペイン語しゃべってなんとか難を逃れようとするシーンや、サヴォナローラに手紙を書こうと二人で試行錯誤するうちに妙に大げさであまりにも仰々しい文面になるシーンや、はたまた、レオナルド・ダ・ヴィンチに発明品のネタを提供して金儲けできたら山分けしようと持ちかけていろいろ説明しようとするがなかなか話が通じないシーンなど、言葉による誤解や意味のズレが可笑しいコントが妙に印象に残りました。

主演二人がそれぞれコテコテのナポリ方言とフィレンツェ方言(たぶん)をしゃべっている、それだけでもイタリア人にとっては、えもいわれぬ可笑しさがあるそうです。そういえば昔観た『ダウン・バイ・ロー』でのベニーニもそんな言葉のズレに関わる可笑しさをまとっていたな、とふと思い出しました。

イタリアの方言はなかなか聞き取れませんし、聞き取れてもよく意味が分からないでしょう、きっと。で、標準イタリア語字幕が頼りだったわけなのですが、ずっと歯がゆさを感じていました。ああ、話している言葉をそのまま理解できれば、もっと面白いのだろうな、と。字幕をみて「なぜ可笑しいのか」は理解はできるのだけど、それは〈可笑しい理由を理解した〉のであって、〈可笑しかった〉のとはやはりズレがあるのですね。

仮に日本で邦盤DVDを出すのなら(可能性は低いでしょうが)、ぜひ思いっきり方言と意訳だらけの吹き替えをつけてほしいです。

先日、電車に乗っていたときに、妙に懐かしい言葉が聞こえてくると思ったら、修学旅行でこっちにやってきた故郷の高校生が乗り合わせていました。聞こえてくるその方言会話を耳にしているうちに、なんだか〈今ここ〉が、〈今ここ〉じゃないような気がして、不思議な気がしました。電車の窓から冬の街を眺めながらも、意識だけが故郷に戻ったような、時空からズレ落ちてしまったような、そんな感覚でした。タイムスリップってこんな感じなのかなと、ふとそんなことを思ってしまいました、……となんだかとりとめのない話になってしまいました。
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2009年11月16日

今さらながら、「屋根の上のバイオリン弾き」を。

森繁久彌氏の訃報に触れ、

そういえばいまだに「屋根の上のバイオリン弾き」を見ていない
(あらすじや設定すら、よくわかってない)ということに思い当たりました。

で、映画化された1971年の作品を、DVDにて鑑賞したわけですが、
これはすごい。

今さら私が誉めるまでもないし、
この作品に描かれた社会状況やユダヤの文化的伝統について、
すでにネット上で見ることのできる情報を越えた知識を提供できるわけでも全くないのですが(ユダヤ関係については、ちょっと検索すると、たいへんな量の情報が…)、
これは本当に、見るべき価値のある作品だと思いました。

全体としては、
予想していたよりも遥かに雰囲気は明るく。

自らの重んじる「伝統」に反する娘たちの決断に激しく怒りながらも、
決してその頬を打ったりせず、
結局は斜め上方の神様(もちろん、その姿はない)に向かって苦笑いしつつ、
娘たちのしたいようにさせる父親、テヴィエ。

          fiddler-on-the-roof-800-75.jpg

守るが支配せず、
口やかましいが裁きはしない。

ユダヤ教、およびユダヤ文化と深く結びついていると思われる、こういう父親像(※下方にて補足)を、
森繁さんをはじめとする日本人俳優がどのように演じているのか、
観てみたいと(ごめんなさい、はじめて)思いました。

また、ユダヤ人の歴史につきまとう「ディアスポラ」(離散)、という概念について、
これまでどちらかと言えば客観的な記述を通して知っていたのとは別の方向から、
その意味の一端を垣間見ることができました。

終盤近く、まさに「離散」していくその場面。

ほとんど涙や嗚咽などなく、
深い諦念と、わずかだが確かな希望を胸に、
静かにそれぞれの道へと進んでいく人々の姿には、
かえって胸に迫るものがあります。

     ★★★

この作品の舞台となっているのは帝政ロシア下のウクライナ地方の小さな村、アナテフカ。

最終的に、テヴィエたちはここからアメリカへと向かうわけですが、

他方、映画「僕の大事なコレクション」(2005年)の主人公、
ユダヤ系アメリカ人青年のジョナサンは、
ちょうどテヴィエたちのたどった道を逆に歩むように、
祖父の足跡をたどり、ウクライナへの旅に出ています。

こちらは釈徹宗氏が『宗教聖典を乱読する』の中で、
「屋根の上の…」とあわせて推薦していたことで知った作品ですが、
これもたいへん素晴らしい内容です(「僕の…」という邦題は、甘ったるくていささか的が外れていると思いますが)。

     by 堀マサヒコ

※ ユダヤ教の神=「裁きの神」という観念は、「愛の神」を強調するキリスト教的なメガネでゆがめられた、というか、狭められたものでしょう(もちろん、多くのキリスト教徒はいまや、そのような貧弱なユダヤ教観を脱していると思いますが、中学・高校の教科書にはいまだ、そのような見方が生きています)。
確かに、神が裁く、という考え方はユダヤ教に(のみならずキリスト教やイスラームにも)ありますが、その裏側には常に、人が裁くのではない、という考え方があるように思います。

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2009年10月05日

うさぎの宗教?

翻訳業に携わっておりますこにりょです。
今回はお気に入りの本のご紹介。

以前「動物たちにも宗教はあるのか」と漠然と考えていたことがあります。
嘘か真か、イルカやゴリラや象が仲間の死を悼むとか小耳にはさみ、そういうのは宗教的な行動だといえるのだろうか、とかいろいろ想像していました。

そんなこと考えているときにいつも思い出すのが、リチャード・アダムスの動物冒険小説『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』(評論社刊)。これは中学のときに読んで以来、ときどき読み返す、ぼくの愛読書の一冊です。

シャーマンのようなウサギが村の危機を幻視し、それを信じるウサギたちが新天地を求めて旅立つ。その行く手に待っているのは……、と物語も実に面白いのですが、この小説では、そのウサギたちが持っている神話や宗教が事細かに描かれています。創造神フリス、神話英雄エル・アライラー、死の黒いウサギ、など緻密に構築された宗教世界に驚きでした。

物語の中で、お話上手なウサギがときどき神話英雄ウサギの活躍を語ります。それを聞くウサギたちは、その伝説の英雄と同化し、英雄が行なったこと、感じたことをそっくりそのまま追体験し、それによってウサギたちは活力や知恵や勇気を得るのです。

しかし、旅の途中で立ち寄ったある奇妙なウサギ村では、もはや神話物語は忘れられ、その村にいるのは語り部ではなく詩人でした。その詩人ウサギは、神話ではなく韻文の詩を朗読しているのです。どうしてそうなったのか、それは読んでみてのお楽しみですが、ある環境によって神話物語が詩へと変化していくという展開は実に印象的でした。

この小説を読み返すたびに、「動物にも宗教があるのだろうか」というぼんやりした疑問は、いつもこの構築美にかき消されてしまいます。ああ、きっとあるんだ、そんな気になったりします。それもまた物語のもつ力なのでしょうね、きっと。
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2009年09月21日

覚醒体験としての夢 ――西郷信綱『古代人と夢』

管理人Aです。

京都での学会は、新たな出会いと発見に満ちた、とても刺激的な三日間でした。
やはり人と話すことは大事だな、と思った次第。

京都という場所柄のせいもあって「和」の方へ意識が傾いたのか、
あるいは、
滞在中、夜はほとんど眠れず、色んな人と夢の中で話したような感覚を味わったせいか、
このところ、学部時代に読んだ西郷信綱『古代人と夢』を改めて読み返しています。

本書によれば、夢はもともと「イメ」(寐目)、つまり 睡眠中の目 を意味するとか。

深い眠りの中でこそ覚醒する何か――「古代人」が様々な祭式や神話を通して大切にしてきたその何かを、著者は 〈他者〉としての魂 と捉えています。

そのような魂の見る夢を、かつて人々は神来のもの、つまりある種の啓示(「他界からの信号」)と受け取り、そこに日常とは別種の「うつつ」としてのリアリティを認めていた、と著者は言います。

この話は、それこそ夢見がちな青年期の私にたいへん魅力的に響いたわけですが、
その時にはあまり気がつかなかったのは、
「夢は大地に属するものである」、 という著者の論点の重要性です。

著者は、「古代人」が夢を介して交流していたのは、
山の神や水の神といった古い大地の神々だと述べています。

そのような神々への信仰が、
天照大神を中心とする「高天の原のパンテオン」の成立とともに相対的には劣位へと追いやられていくとともに、
夢の神性はリアリティを失っていった、というのが、
著者の主要な論点の一つであるようです。

日本人の宗教、というものを考えるとき、
「神道」や「仏教」、あるいは「アニミズム」といった一般概念には回収し尽くせないような、
あの山、この川という地域的な自然環境と一体化したローカルな信仰にこそ目を向けることが大切じゃなかろうか、
と私は思っているのですが、そのような観点からも、
これは面白い議論だと思います。


     by 管理人Aこと、堀

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2009年08月24日

『古代地中海を巡るゲオグラフィア』

翻訳業をやっております、こにりょ、です。

今回は、ステファノ・マニャーニ著『古代地中海を巡るゲオグラフィア』(シーライト・パブリッシング刊)という書物のご紹介。何を隠そう、ぼくが2年ほど前に訳した本です。

img_geo.jpg

原題は「古代世界の歴史地理学」と言いまして、古代地中海地域の歴史と地理が絡み合う様を細かく描いている、なかなか面白い本です。

歴史というのは人の営みなわけですが、人の営みはいつも場所と関わっています。ぼくらもやっぱり、どこに住むかというのは人生の一大事なわけですから、それが世界の歴史ともなれば当然重要な要素になってくるでしょう。

古代地中海の歴史にしても、地中海があったからこそ、今ぼくらが知っている歴史が生まれたといってもいい。海、陸地、風、波、気候、資源、動植物、風景……、そのような要素が複雑に絡み合って、地中海の歴史は形成されていったのです。

本ブログでも前に、〈地‐図〉の話が出ましたが、陸地の認識と、そのモデル化としての地図の話題が、この本の中にも出てきます。地図を見れば、その時代の人たちがどんな世界認識を持っていたのかが分かるというわけです。どこが人の住む世界で、どこが人外魔境なのか、地図は教えてくれます。それは現在の地図だって同じこと。地図に載っていない場所は、人が行くことができない(とされている)場所なのです。

さまざまな資料を使いながら、いままで気づかなかったような視点で、地中海の歴史を語ってくれる、とても分かりやすい本です。もし読みにくいのであれば、だぶんそれはぼくの責任です。原書はとても理路整然としていましたから。

興味が沸いてきた方は、ぜひ手にとってみてください。
出版社のサイトはこちら。http://www.c-light.co.jp/

なお、ぼくの音楽コラムもそのサイトで連載してますので、よければご覧くださいませ。
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2009年08月03日

原研哉『デザインのデザイン』

ここ数年、改めて、デザイナーの発想、というかデザインという考え方から学ぶべきものの多さを実感しています。

それは、このサイトでもおつきあいのあるkikuchさんの影響もあるのですが、
デザインという仕事に関わっている人の発想が、どうしてこんなに面白いのか、その理由がうまく捉えられずにいました。

そんな中。

原研哉氏の『デザインのデザイン』(岩波書店、2003年)を読んで、
なるほど、そういうことだったのか、と思うところがたくさんありました。

そのたくさんをすべて書くと長くなりますので、
ここでは前書きから二箇所、いきなりずどーんと来たフレーズを引用させてもらいます。

     ★★★

―― 「何かをわかるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。
むしろ知っていたはずのものを未知のものとして、そのリアリティにおののいてみることが、
何かをもう少し深く認識することに繋がる」。

―― 「机の上で軽くほおずえをつくだけで世界は違って見える。
ものの見方や感じ方は無数にあるのだ。
その無数の見方や感じ方を日常のものやコミュニケーションに振り向けていくことがデザインである」。

     ★★★

デザインという仕事、またデザインという考え方をこのように捉えることができるのだとすれば、
それは日々、私が学んでいる宗教学や哲学という学問、
あるいは仕事として行っている大学での「授業」という行為そのものと、
関わらないはずはありません。

この本の面白さは、そうした思想としてのデザインを、
原氏のこれまでの具体的な仕事のありようを通して非常にわかりやすく説いている点です。

その筋の(?)方々にとってはあまりに有名な方の著作ですが、
私がそうであったように、
別にその種の仕事についているわけではないんだけど、
デザインってそもそも何だろう、と気になっている人、
あるいは、これまでデザインにこれと言った興味をもたなかった人にも、
お勧めできる内容です。

装丁や論述形式が、なんか岩波っぽくないところも良いです。

posted by 堀(宗教学) at 13:00| Comment(0) | お薦め | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月18日

オギュスタン・ベルク『風土の日本』(ちくま学芸文庫、1992年)

オギュスタン・ベルクはその著書『風土の日本』の中で、
「日本の文明は、その居住域(エクメーネ)を可能なところまでは広げなかったように思われる」
と書いています。

そうして残された広大な「非居住域(エレーム)」を、
日本人は神々の住まう場所、また自然と再会する「遊び」(山遊び、野遊び)の空間として大切にしてきたのだ、というのがベルクの指摘です。

ここで、ベルクが海の「沖(おき)」と山の「奥(おく)」とが同じ語根に由来する、という点に注目しつつ、下図のような対称性を見出していることには、なるほど、教えられる面が多いと感じます(個人的には、宮崎駿の世界を想起)。

自然と文化の空間構成(ベルク).jpg

この他にも、興味深い論点を数多く含む刺激的な書物で、
狭義の日本人論というのではなく、
哲学はもちろん、美学や環境論など、広く多様な関心のもとに読まれるべき内容です。
和辻哲郎に代表されるこれまでの日本的「風土」論の問題点を的確に指摘している点でも、良書だと思います。

先日亡くなられた坂部恵氏が解説を書いているのは、
非常に「らしい」感じがします。

posted by 堀(宗教学) at 03:12| Comment(0) | お薦め | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月09日

もらった青汁の使い方

親族から青汁をもらったのですが、体にいいのはわかるんだけどなかなか消費できないでおります。

同じ境遇の方がもしどこかにいたら……(笑)
『若草かん』←勝手につけた名前
づくりをオススメします♪

【材料】
・青汁、大さじ2〜3(てきとうに)
・練乳、130〜160g(いちごにつけるコンデンスの小さいタイプ一個まるごと)
・粉寒天4g
・牛乳200cc
・水150cc

【作り方】
@分量の水、粉寒天をなべにいれて中火にかける。
ときどきまぜながら寒天をとかす(2〜3分)。
Aさらに1〜2分、軽くにたつくらいの火加減でにる。
B火からおろしてコンデンスミルクを加えてさます。十分あまいので砂糖は加えなくてもいいと思う。コンデンスミルクには酸が含まれないので熱いうちにまぜても大丈夫です。
C荒熱がとれたら、牛乳に青汁を混ぜたものを加えてまた混ぜる。
D型にいれて冷やして固める。


春にぴったり、若草色のすてきな寒天ができます。


私は、作る度に分量は適当です。
コンデンスミルクが大きめだと甘くなり、青汁の粉が多いほど緑色はこくなります(笑)。
Cのところで、バニラエッセンスとかコアントローなど、香りのするものを加えたりもいいと思います……がなくてもできます(^^ゞ。

デザートとして、または最近プリンどらやきとかもあるくらいなので、サンドイッチにするのもありだと思います。

繊維が豊富でゼラチンより扱いやすい(気がする)寒天を利用して、青汁生活を楽しんでみませんか♪
青汁もてあましてる方に……オススメレシピでした。

古畑亜紀 (トランペット奏者)
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2009年02月02日

包む、切る、つなぐ

管理人です。 根回しが遅れ、バトンが手もとに残ってしまいました。

議事録書きに悩まされているIMAさんの助けにはならないと思いますが、今日は「図解」というツールについて教えてくれる本を一冊、紹介したいと思います。

永山嘉昭著
『説得できる図解表現200の鉄則』日経BP社、2002年。


          ★★★

話すときでも、書くときでも、できるだけ広く伝わる言葉を使いたいし、使えるようになりたい、と思っています。
その場合、図解というのが第二の言葉というのでしょうか、ともかく非常に大事だということにわりと最近気がつきまして、上のような本を手の届きやすいところに置いています。

もちろん、よく言われるとおり、図解には単純化がつきもので、
あまりこれに頼りすぎると大切なものが抜け落ちたりすることもあるでしょう。
しかし、そうした難点も含めて、
図解のはたらきには、
言葉のそれとよく似ている面もあります。

言葉とは何ぞや、ということを学生の頃(今もその延長ですが)からあれこれと、ただし途切れ途切れに考えてきまして、
色んな言語理論の切れ端のようなものが頭には残っているのですが、
少なくとも何かを人に説明するための言葉に関して言えば、そのはたらきは

@ 包む(まとめる)
A 切る(区別する)
B つなぐ(関係づける)

という三つに集約されるのではないか、と今はかなり単純に考えています。

結局これは、説明のための図を作るときと同じアクションでしょう。
実際、ちょっと表現は異なりますが、上記の本の著者も

@ 囲む
A つなぐ
B 配置する、

が図解のすべて、と述べておられます。

そのような前提のもと、この本では例えば、
「囲む」際に四角を使うのと丸を使うのでは印象にどのような違いが出るか、とか、
「つなぐ」際に全体の動きを右回転にするのと左回転にするのとではどう違うか、など、自分ではなかなか気がつきにくい効果、あるいは逆効果の具体例が豊富に挙げられていてタメになります。

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