2010年02月15日

太陽を凝視した男。

こにりょさんの太陽について、からシナプス接続。

まさに、「見てはいけない」太陽を、
過剰なまでの科学的探究心から肉眼で見つめてしまい、
失明しかけたという逸話を持つ人がいます。

その人の名は、グスタフ・フェヒナー(G.Fechner;1801-87)。


gustav-theodor-fechner.jpg


実験科学としての心理学の誕生に大きく貢献したドイツの学者の一人として、
心理学の教科書などでも紹介されています。

そうした文脈で必ず言及されるのは、
彼が自ら「精神物理学」と呼んだ方法論で、
これはつまり、
物理的刺激と、それに対する感覚の変化を調べることによって
心と身体の対応関係を数量的に確かめる、というものです。
(サトウタツヤ・高砂美樹『流れを読む心理学史』有斐閣、20〜24頁などを参照。これ、良書と思います)

太陽を凝視して、というエピソードは、
そうした方法論を確立するよりもかなり前のことですが、
それもまた、
光と残像の関係を確かめるための「実験」だったそうで、
後に発展する方法論の萌芽でもあったのでしょう。

     ★★★

私が好きで、長いこと読みつづけているアメリカの哲学者、
ウィリアム・ジェイムズの著作のいくつかに、
このフェヒナーに対する賛辞(しかも、かなり興奮を帯びた)が見られます。

ジェイムズが感激しているのは、
フェヒナーの実験家としての側面よりもむしろ、
彼の独特の宇宙観であるようです。

その特徴の一端は、
フェヒナーが心と相即するところの「身体」というものを、
極めて多様なものとして、また極めて広い範囲に見出そうとしている点に認められます。

たとえば、植物。
あるいは、地球そのもの。

これらにフェヒナーは、確かに「身体」を見ています。

そこに身体を認めるということは、
同時に、そこに精神的な営み(ジェイムズの言い方では「内的生活」)を認めるということでもあります。

ジェイムズが注目を促すところのフェヒナーの思想は、
日本に育った私には、
何となく「依り代」的な考え方とも部分的に重なるような気がして、
共感できる面があります。

しかも、そのような着想を、単なるフィーリングによってではなく、
一定のロジックを働かせながら紡ぎだしているところに、
興味をそそられます。

しかし、この面でのフェヒナーの著作は、
死後生を論じた小著を除いて、日本語訳がほとんどありません。

私はドイツ語が×××なので英訳に期待したのですが、
これもほんの一部の著作(というか、断片)にとどまっています。

しばらくは辞書と首っ引きの状態でも、
ドイツ語に噛り付くしかないようです。

     by 堀マサヒコ

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2009年12月28日

善い魔女――ホレおばさんと銭婆

立て続けの登場にて失礼します、
管理人の堀です。

先週書いたことの関連で、わりと最近、気が付いたことをひとつ。

     ★★★

「善い魔女」が登場する物語の例として挙げられるものに、
グリム童話の「ホレおばさん」があります。

井戸から落としてしまった糸巻きをとりに、
その中へと飛び込み、地下の世界にたどりつく娘。

そこで出会うおばあさんは、
その一見恐ろしげな風貌とは裏腹に、
まじめに仕事を手伝ってくれる娘を暖かく迎え入れ、
最後は黄金という褒美まで与えて地上へと返しています。

もっとも、善い魔女と言っても、その性格は両義的。

主人公の娘の帰還後に、継母が黄金目当てに送り出した別の娘に対しては、
まじめに仕事をしなかったということで、
一生取れることのない汚れという、かなり強烈な罰を与えています。

先週紹介した本でも論じられているように、
魔女(とまとめられるに至る、諸々の不思議な力を持つ女性)は、
もともと善悪あわせもつ存在だったと考えられています。

それが、キリスト教的な選別倫理の浸透を通して、
純粋に善なる聖母のような存在と、
まったき悪のかたまりのような「悪い魔女」へと両極化した、というわけです。

     ★★★

で、さいきん気が付いたことというのは、
このホレおばさん、
宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」に登場する銭婆と実に共通点が多いということ。

西洋の魔女の原型になっているもの(かなり多様)の筆頭に挙げられるのは、
地母神や太母と総称される各地の女神ですが、
これらは総じて、
豊饒神としての側面と、
冥界の女王としての側面をあわせもっています。

大地が生命のゆりかごであると同時に、
墓場――「土に帰る」場所――でもあることからすれば、
この両面性は、不思議なことではありません。

ホレおばさんと銭婆は、
どちらも冥界の女主人という側面が非常に濃厚だと思います。

ホレおばさんの主人公は井戸に落ちて奇跡的に生還し、
他方、「千と千尋」の千尋は、かつて川に落ちて奇跡的に助かったことを思い出しています(しかも、銭婆の家を訪ねた直後に!)。

また、
ホレおばさんの主人公は糸紡ぎの途中で糸を落とし、地下の世界へと誘われますが、
他方、千尋が冥界らしき場所で出会った銭婆もまた糸を紡いでおり、
その糸で編んだ髪留めを千尋に贈っています。

「運命の女神の紡ぎ車」という言葉で親しまれるイタリアの女神、
フォルトゥーナに代表されるように、
糸紡ぎという作業(および、紡がれた糸)は、ヨーロッパではしばしば運命のゆくえと関係づけられてきたようです。

思えば、いずれの物語の主人公も、
運命の歯車が少し違った方向に回っていればこの世に戻って来れなかったわけで、
どちらも極めてきわどい場所を旅してきたと言えそうです。

     ★★★

この共通性はおそらく、
宮崎監督にとってはアタリマエというか、十分に意識化されているものでしょう。
(ホレおばさんの模倣、などというケチな話ではなく、
日本人もまた童話を通して親しんできた西洋の神話の祖型をなぞる、という意味で)

「千と千尋」については、
日本的なアニミズムとの関係や、
宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」との類縁性を指摘する人が多いのですが、
このあたりを考えると、
さらに多様な要素をはらんでいるようで、
改めて面白い作品だと思います。

    by 堀マサヒコ

     ★★★

今年の更新は、これが最後となります。
みなさま、どうぞ良い年をお迎えください。

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2009年12月07日

食玩

          TS380194.JPG

前回の kikuch さんの話ですが、
ノベルティの魅力には確かに、抗いがたいものがありますよね。

うちの奥方なんかも、
トートバッグが付いてくるから、というのでペットボトルのお茶を大量に買ってきたり、
〇ッフィー絵皿を獲得するべく、
コンビニはしばらく「〇ーソン」限定とすべし、との方針を打ち出したりしています。

そりゃ本末転倒ってもんだよ、と、冷笑しつつも、
私自身、目新しいノベルティ(同語反復…)を獲得しては妻子に見せびらかしたり、
昼食用のパンについていたシールをせっせと貢いだりしています。

     ★★★

こういうものに魅せられる気持ちのルーツは、
やはり子供の頃、キャラメルとかに付いてた「おまけ」のウキウキ感だろうなあ、と。

写真は大人になってから魅せられた「おまけ」(オトナらしく言えば食玩ってやつですな)。

数年前、カバヤから出ていた 「世界の神話・仏教神話編」 に含まれていたもので、

左から @金剛力士・阿形、A降三世明王 B増長天 C金剛夜叉明王 D金剛力士・吽形 
となっています。

途中から同じものしか引き当てられなかったので、
コンプはさっさと諦めたのですが、
今もオークションや通販で手に入れることはできるらしい。

仏教「神話」と銘打ってるだけに、
明王と天しか出ないのかなあ、と当時は思っていたのですが、
(ご存知の方も多いでしょうが、仏像は一般に如来、菩薩、明王、天の四種に分かれ、後二者には古代インド神話の神々に由来するものが多いようです。)
その後、カバヤは密教曼荼羅シリーズも出したらしい。

良いセンスだ〜 大日如来とか、結構ほしいぞ。

で、本体のお菓子がいったい、どんなものだったのか、
いま思い出そうとしているのですが・・・
全く思い出せません。

     written by 堀マサヒコ

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2009年08月10日

graphic = カオスから立ち上がるカタチ

先週に引き続き、原研哉氏の『デザインのデザイン』から。

原氏は自分の仕事、「グラフィックデザイン」とは何かを改めて問うて、
こう書いています。

     ★★★

―― 「graphic とは、直訳すると「絵のような」という意味であるが「絵」という概念を今日的に捉え直すとするならばそれは「図」と呼んだ方が的確かもしれない。 「図」とは「地」に対する概念。 すなわち無意味なカオスとしての背景から立ち上がる「意味のある形質」のことである」。(219頁)

     ★★★

原氏はさらに、このような意味での「図」は「情報」という概念に置き換えることもできる、と述べ、「ノイズの海」から立ち上がる「図」=「情報」の美こそは、グラフィックデザイナーにとって「究極のテーマ」だとしています。

駐車場の「P」のカタチに目を凝らす kikuch さんのエッセイから、
私が「図と地のゆらぎ」について考えされられたのは、
なるほど、自然なことであったのだな、と思いました。

posted by 堀(宗教学) at 00:35| Comment(2) | シナプス接続 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月27日

聖地チベット展・2

翻訳業をやっております、こにりょ、です。私も「聖地チベット展」に行ってまいりましたので、感想を少し。

日本のともインドのとも違う神像や仏像が並んでいて、なんとも壮観です。頭がたくさん、手がたくさんの観音さまも迫力ありましたが、特に頭が動物の像はとても好きなのでいろいろなものをじっくりと堪能してきました。

昔の人はこういう異形の神々の姿をどのように想像して、どのように細部を定めていったのか、出来上がったものにどういう思いを抱いていたのか、そういうことを考えるだけで、歴史の重みと人の精神活動の奥深さに、頭がクラクラしてきます。

そういえばお台場に等身大ガンダム像が作られたそうですが、そういうのを見て圧倒されるのとつながるのかもしれない、とふと思ったりもします。あのあれが、二次元にしかなかった、観念の中にしかなかった、あれが、今、現実に目の前に、物質として、しかも、こんなにリアルに! という気持ちはよく分かる。神話に出てきた神様が、実際に目の前に現われれば、おお! と感動してしまう。アニメやゲームのキャラクター・フィギュアを愛でるのとも、おそらくつながりがあるのだと思います。

つかみどころのないもの、想像の中にしかないものを、形ある具象物にして、それを〈愛でる〉〈敬う〉〈崇拝する〉、そんな気持ち。そういうものが感じ取れた展覧会でした。具象物として、今ここにあるもの、は、やはり理念や思想とはかなり異質な、独特の迫力がありました。回せば経文を唱えたのと同じ功徳があるという聖具〈マニ車〉も、お試し用のものがあったので、思い切りぐるぐるぐるぐる回してきましたが、そうやって具体的なものに触れるというのは楽しいですね。

たぶん、これも楽して功徳を得る道具とかいうものじゃなくて、手を動かして、ある動きを作って、同じ功徳へと到る別の道なのだな、という気がしてきました。結構ずっしり重さを感じるマニ車を、あるパターンで動かす(くるくる回す)というのは、何かしら心の高ぶりを覚えます。心の変容とでもいうような……。ふと思えば、仮面ライダーが変身の際にある決まったポーズをとるのも、アニメの魔法少女が何かの道具を一定のパターンで動かして変身するのも、同じような意味を備えたプロセスなんじゃないだろうか、心が変容するのと同時に体も変容するかもしれない、そもそもそれらは密教の印につながるのではないか、などと、いつもの空想癖に浸ってしまいました。

展覧会はまだまだやっておりますので(〜8月23日)、ぜひどうぞ!
posted by こにりょ at 00:40| Comment(1) | シナプス接続 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月20日

聖地チベット展。

鍼灸師で、東洋医学全般にも詳しい福田さん()を誘い、
道立近代美術館にて開催中の「聖地チベット」展へ。

先に入場していた管理人Bこと、こにりょさんと合流するも、
こにりょさんはその後の予定が押していたため、先に退出。

展示の内容は、かなり充実したもので、
福田さんとあれこれ感想や疑問を差し向けあいながら一回りするのに、
二時間以上かかりました。

福田さんからは、
チベットの医学や身体イメージ(それは歴史表象や宇宙観にも関わっています)について、
インドや中国との比較の観点から、色々と教えてもらいました。

私の方は、仏画や舞踊の仮面に散見されるドクロや、
ぐわっと目を見開き舌をべろりと垂らした仏神の表情に、
思わず「なんか、ヘビメタに通じるものを感じるなあ」と一言。
(より広く、ハードロックとくくっておくべきかもしれませんが)

考えてみれば、チベット密教も、「セックス&バイオレンス」ってとこあるもんなあ、と、
何だか妙に納得してしまいました。(※)

・・・俗っぽい感想で、すんません。

※ これはまあ、少なくともまったくの的外れではなかろう、
  ということで、関連書物を紹介。
  
  → 正木晃『性と呪殺の密教:怪僧ドルジェタクの闇と光』
     (講談社選書メチエ、2002年)

  ドクロ好きといえば、この人(↓)も。

posted by 堀(宗教学) at 23:53| Comment(2) | シナプス接続 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月13日

図/地のゆらぎ。

IMAさんの学校標語めぐり
kikuchさんのPのデザイン、と続いて、
つくづく、見ているようで見ていないものの多さを実感。

気になりだすと、これが目に入る、目に入る。
よもや今日になって突如として増殖しだしたのでは?と思われるくらいに。

で、思い出したのは、
生物学者ユクスキュルが用いた有名な絵。
(日高敏隆『動物と人間の世界認識』ちくま学芸文庫、44-5頁より)

三つの?部屋.jpg

同じ一つの空間にいても、
ヒト、イヌ、ハエと、種が異なれば、
関心をもつ対象もまた異なる。

関心のあるもの、つまり自分にとって有意味なものは、
いわばスポットライトが当たったように冴え冴えとした輪郭を持つけれど、
その他は後景に退き、個別の対象としては見えない(極端に言えば「ない」)に等しい。

たとえば同じ一つの部屋でも、見え方はこんなに違うんですよ、
ということを、この絵は示している。

図と地のゆらぎ。

ある日、突然、
学校標語のひらがなことばや駐車場の「P」が、
後景から前景へとせり出し、存在を主張し始める。

関心は存在の母なのだ。 いま思いついたけど。

日常のありふれた世界が、ちょっとだけ、しかも二度と取り返しのつかない仕方で(・・・そうか?)、変貌を遂げる。

こうしてコトバはたえず、世界を裁ちなおす。

それが実感されるときの、この軽い眩暈のような感覚が、
好きなんだな。


     by 堀マサヒコ
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2009年05月18日

シナプス接続 その3

管理人の堀です。

リレー式で運営しているこのブログ。
まだお誘いできていないメンバーもいるのですが、
とりあえず二周目を終えました。

今回は、全体に言葉やコミュニケーションをテーマにしたエッセイが多かったように思います。

すべての記事をフォローすることはできませんが、
ここではそのようなテーマに沿って、少し考えたことを振り返ってみます。

*****

語ることは騙ること、とよく言われるとおり、
ある口ぶりで語ることは、その口ぶりが示すタイプの人間を演じること、その種の人になりきることに通じます。

こにりょさんの命名による「じいさんしゃべり」(3月2日)は、その典型でしょう。

もちろん、演じることは単に「だます」ことにあらず。

ちょうど先日、劇作家の平田オリザ氏と霊長類学の山極寿一氏がTVの対談で話されていたとおり、
演じるということ、ある役割を演じるということは、
社会的関係をきずく上でかなりベーシックな営みでしょう。

カメレオン人間、などという言葉もあるようですが、
そこまで適応主義的にならないにせよ、
様々な場面に応じてそれなりに柔軟に色んな役柄を演じ分けるなかで、
私たちの個性というか、「人柄」と呼ばれるものも次第に出来上がっていくのだと思います。
(→「性格」3月30日)

また、そのように演じ合うなかで、
私たちは互いの心の中に少しずつ自分の居場所を見つけていき、
他人でありながらもどこか他人ではない関係というものを作っていくのだとも思います。

夫婦も演じあうことで面白みが出てくる、とは
先述の対談での山極氏の名言ですが、
私は「オバちゃんコミュニケーション」(3月16日)もまた、
そのような文脈で受け取りました。

*****

そのように、コミュニケーションということを人とのかかわり全体として考えてみると、
言葉の果たす役割、とくに明確な「意味」の乗り物としての役割が占める場所は、ある程度差し引かれるべきかな、という気がしてきます。

たとえば初めて訪れた異国の地で、
言葉の意味ではない、何かが伝わることがある。
(→「外国にて」4月13日)

あるいは、正しい言葉遣いよりも、
その壊れように、一同の関心が向かってしまうことがある。
(→「オマエハ、ダレダ」5月4日)

さらに言えば、
狭い意味での言葉に限らず、ある種の「かたち」やデザイン、
しかも、誰が何の目的でつくったのかもわからないものにすら、
私たちは心をくすぐられたり、なごまされることがあるわけで。
(→「すずらんのデザイン」3月23日)

それらもすべてひっくるめて、コミュニケーションの多様な形態ということを考えるなら、
それはきっと、「人間」(人の間)というワクすら越えて広がるものになってくるのだろうと思います。

   by 堀マサヒコ
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2009年02月23日

シナプス接続 その2

管理人です。
このところ私のところに留まりがちだった本ブログのバトンですが、
ようやっと来週から、二巡目に入る予定です。

そこでまた、ここ2ヶ月間の記事へのコメント、というかそれらに触発されて考えたことなどを、記させていただきます。

          ★★★

1月19日、美術館学芸員、Hさんの「愚直、について」

職場にも慣れ、「効率よく」仕事をこなすことを考えるようになった今だからこそ、そういうモノサシにはそぐわないもの――たとえば、「愚直さ」と呼ばれるようなもの――を改めて大切にしたい気持ちも出てきた、とのお話でした。

確かに、私たちの住んでいる社会は、こと「仕事」という面では何よりも効率の良さを求める傾向が強いですね。
「ムリ、ムダ、ムラ」を排除せよ・・・かつて受けた、社員研修で繰り返されていたフレーズを思い出します。
それ、ほぼ俺の全成分だよ、と思ったことも(笑)

時間との付き合い方、という面で言えば、効率を求める立場は徹底して、時間を「使う」視点に立つものだと思います。

その視点からは、時間そのものは空虚な入れ物に過ぎず、その中にどれくらい多くのものを詰め込むことができるかが重要だ、ということになるでしょう。

しかし、私たちはもっと違った形での時間との付き合い方をも、求めているはずです。
時間を「使う」のではなく、たとえばそれを「味わう」ことや、時にはそれを「超える」ものに視線を注ぐこともまた、必要なのではないかと思うのです。

いささか唐突ですが、フランスの文筆家、ロジェ・カイヨワは人間の体験世界を「俗」なる労働の世界と、遊びの世界、そして「聖」なる祈りや儀礼の世界に区分しました(一般に「聖・俗・遊」図式、などと呼ばれています)。

(時間を)「使う」視点は俗なる労働の世界に、
「味わう」視点は遊びの世界に、
「超える」視点は聖なる祈りの世界に、それぞれゆるやかに対応するかと思います。

カイヨワが示唆したように、私たちはこれら三つの世界の一つにだけ、住んでいるわけではありません。

Hさんは日々、時間に追われる労働の世界を生きながらも、
敢えて「愚直」さを保持するという選択を通して、
その外側の世界との往還の通路をしっかりと確保されているのだと思いました。

           ★★★

続いて1月26日、Iさんの「議事録を書く」

Iさんとは先日、久々にお会いして、あまり日数に余裕のない中、寄稿をお願いしたのですが、届いた原稿を一見して、うーん、やっぱり只者じゃないなあ、と。
いや、只者なんてこの世にはいないんですけどね(笑)、
こういうウィットに富んだ文章を書ける才能というのは、やっぱり稀有なものだと思います。
「小鳥たちが飛び立つ」ところで思わず吹き出してしまいました。

議事録が会議の内容を写し取るのではなく、
むしろ会議が「議事録の影」になるという逆説。

フロイトの言う記憶の事後性や、
言語哲学における写像理論の無効化(というのは言いすぎかな)など、
色んなことを想起させるところですが、
過度に理屈ぽくならない脱力感がまた、Iさんの文章の持ち味ですね。

          ★★★

最後は2月16日、徳田さんの「理想」

徳田さんの文章を読んで思い出したのは、
アラーキーこと荒木経惟氏が編集した写真集、『恋する老人たち』(筑摩書房、1993年)の最後に収められた、一枚の写真です。

この写真集は、様々な写真家が撮影したお年寄りの写真の一つ一つに、
荒木氏がコメントを加えたものです。
最後の一枚には、荒木氏自身が撮影した深川のきんつば屋さんのおばあちゃんの写真が選ばれています。

これに添えられた荒木氏のコメントは、手書きのニュアンスも含めて味のあるものなので多くは引用しませんが、
一つには、一見して多くの人が心をひきつけられるであろう、このおばあちゃんの笑顔のすばらしさを、
二つには、「ずーっとアンコ練ってるから」こその、しっかりとした手指の美しさを、称えています。

もう15年以上前に買った本で、そう頻繁に頁をめくるものでもないのですが、この1枚、特にその手指に象徴される、長年月にわたる労働が作り出したこの女性の美しさは、荒木氏のコメントとともにいつでも鮮明に思い出すことができます。

まったく勝手な想像ですが、徳田さんのおばあちゃんもまた、
働き者ゆえの、しっかりとした、美しい手指の持ち主にちがいない、と思うのです。

視覚的情報のみが先行する現代文明の中で、自らの手足を思い切り使って遊んだり、そのようにして働いたりすることをどこか避けながら育ち、生きてきた私。
フィルムに包まれた魚肉ソーセージみたいにつるんとした自分の指を見つめていると、自らの「手の歴史」の貧弱さを思い知らされる気がします。

          ★★★

          written by 堀マサヒコ
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2008年12月29日

シナプス接続。

管理人の堀です。

今年最後の更新ということで、
これまで私以外の方々が寄稿してくださった記事を振り返りつつ、
私自身の勝手な感想、連想などを記してみます。

**********

まずは11月3日分、こにりょさんの「腰痛対策」
後半に記された、「翻訳にはバッハがいい」という説の真偽のほど、
こにりょさんと同様、私も気になります。
たしか、野菜だか果物だかにもバッハを聞かせると美味しくなる、
ということを言っていた人もいるような気がするのですが、

なぜバッハばかりがそうもてはやされる(?)のか。

何でもハスに構えて見る癖のある私には、
「そういうのって、言ってる人の好みが反映されてるんじゃないの?」と、疑いたくなります。
ロックよりクラシック、的な大雑把なくくりでの話もよく聞きますが、
そういう場合の「ロック」って、何だかものすごく限定されたイメージ(ヘビメタ的なもの)になってる気がしてなりません。

ま、バッハは好きなんですけどね。

**********

11月10日、古畑さんの「トランペットに目覚める」
こんな一節があります。

―― 神の前ではすべてが平等、とゆう発想が西洋クラシックのルーツ。
    わたしは他のなにかを見下す感じがあたりまえな、クラシック系の輩は
    かんじんなルーツが理解できていないとみている。

確かに、クラシック音楽とキリスト教との間には、
深い関係がありそうです。

たとえば、これは私が以前から抱いている考えというか、まあ思い付き的なもんですが、
クラシック奏者における譜面に対するこだわりの強さ(私の知る限り、ジャズやロックをやる人たちの比ではありません)は、
キリスト教における聖書に対するこだわりに似ているところがあるように思います。

そうした中、おそらくは大半がキリスト教徒ではない日本人クラシック奏者が、
西洋音楽の背景にあるキリスト教的な発想から何を取り出し、受け継いでいるのかというのは、いつも何となく気になっているところです。

その点、古畑さんの姿勢はすごく明確で、
かつ、「クラシックやる人は西洋中心主義者」という、
私のとんでもなく凝り固まった偏見を、見事に砕いてくれるものでした。

*********

続いて11月24日、佐藤さんの「いっぽいっぽ」

ここでも宗教の問題が触れられています。
日本人の多くが口にする「無宗教」というのは結局、
教団宗教に対する帰属意識の薄さと信頼度の低さの表現であるかと思います。
教団という形をとらない、もっと漠然とした「宗教的なもの」に対する関心は、おそらく「無」ではない。
本当に「無い」のはむしろ、宗教と自分との距離を適切に表現する言葉だろう、と、
私自身のことも含めてそう思います。

そういう言葉を、異国の人たちにもしっかり届くものとして、
各人がゆっくりと模索していくことがこれからは大切だろう(できればスピリチュアル何とかと称する人などに頼らずに)、と、
そんなことをエラソに大学で弁じておるわけです(笑)。

そういう意味で、佐藤さんの書いておられることには感銘を受けました。
特に、カミサマとは運命の言い替えではあるまいか、というのは、
私自身、たとえば旧約聖書などを読んでいると強く感じるところです。

そして何よりも、文章全体から感じられる佐藤さんの気迫というか、
色んなところに頭をぶつけることを恐れずに突き進む姿勢というのが、
ある種、宗教的とも言える求道者の姿勢だよなあ、と思うのでした。

個人的に見習わねばならないところ、たくさんです。

**********

12月8日、菊地さんの「マルボロのデザイン」

細部にわたる分析の妙、まさにデザイナーならではの視点で、
さすが、と思いました。

ちなみに日本の呪術・宗教的な習俗の中では、
赤は悪鬼や病魔をはらう呪力を伴う、とされる色。

感覚的には多くの人がわかっているところだと思いますが、
赤ベコやダルマ、ふんどしや産着など、
その種の意味づけが想像されるものは、たくさんあります。

このあたりのことをわかりやすく説いた『招き猫は何を招いているのか』(光文社文庫)の著者、辻原康夫氏によれば、
口紅もまた、人体に悪鬼が入り込まないよう、「口元をシャットアウトすることを目的に考案された用具」だという説があるそうで。

マルボロの屋根部分が女性の口元を表している、という菊地さんのお話とあわせてこのパッケージを見直していると、
何となく魔除けっぽいデザインにも見える気も。

さらには、これって巫女さんの衣装に似てるよなあ、などと、
空想は果てしなく続くのでした。

**********

12月15日、pockleyさんの「パズル」
pockleyさんとは、ふだんやっていることが近いこともあり、
「わかるわかる」、というところがたくさんありました。

なので、それほどコメントも思いつかなかったりするのですが、
パズルという比喩が学問についてとりわけ適切に思えるのは、
好きじゃない人にとっては、もうひたすらめんどくさいものでしかない、というところではないかと。

パズルの命はプロセスにあるのであって、
答えにあるのではないですから、
めんどくせー、と思ってしまえばもう、やる気力など出るはずも無いわけで。

しかも、パズルなら何でも好き、とか、学問なら何でも好き、という人はふつういなくて、やはりその種類によりけり、というところもよく似ています。

いや、それは結局、学問に限らないのかもしれません。

めんどくさいことをめんどくさいと思わないと言うか、
それすらを楽しめるような種類のパズルを見つけることができると、
人生はぐっと楽しくなるような気がします。

たとえそれが、恋のパズルでもね、と、ガラにも無いことを言ってみたりして。 

**********

最後は12月22日、福田さんの「『面』の道は東洋思想に通ず?」

まず、表題に込められたお考え、
そのとおり、と思います。

私の学んでいる宗教学という学問は、まあいちおう、西洋的なものも東洋的なものも射程に収められるはずのものなのですが、
やはり、明治以降、「学問」と呼ばれるものの仲間入りをする過程で、
著しく近代西洋的な観念の影響、というかほとんど呪縛を受けてきたと思います。

だからといって単にベースを西から東へ移せば良い、というような簡単な問題ではありませんが(そもそもそんなこと、できないし)、
東洋思想から汲み取るべきものは、ふんだんにあると思います。
もちろん、福田さんも言われるとおり、
東洋/西洋という二分法自体が、疑われるべきものではありますが。

それと、いわゆる西洋思想自体の中にも、
合理主義によって切り落とされたものがすごく多いな、と思います。

たとえば、合理主義は言葉の働きをロジック(論理)の問題に狭めすぎたのではないかと。
レトリック、つまりメタファーに代表される様々な修辞の働きには、
それこそ福田さんが言う「つながり」の発見に関わるものがあるわけで、そういうものを再評価していくと、
西洋と東洋の対立は、何ほどか緩んでいくのではないかと思います。

**********

以上、一気にコメントをしてみました。

翻訳家、音楽家、画家、デザイナー、鍼灸師、と、
多様なジャンルの方々にご寄稿いただきましたが、
難しいのはやはり、
それぞれの人の発想をいかに「繋ぐ」かという部分。
まとめる、のでは決してなく、ね。

コメントの中で記した私なりの連想のメモが、
お読みいただく皆さん自身のシナプス接続のちょっとした刺激になれば幸いです。

では皆さま、良い年をお迎えください。
新年は第二週、1月12日から開始、の予定です。
posted by 堀(宗教学) at 01:03| Comment(0) | シナプス接続 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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