2010年01月25日

太陽のこと

冬になると太陽が恋しくなります。私は、真夏のギラギラした太陽が大好きで、雲の多い冬はどうにも寂しく感じます。北の地にいると、真夏でも太陽があまりギラギラしていないので、ちょっと残念なのですが。

ここの太陽は南国みたいにギラギラしていないとはいえ、やっぱりそれなりにギラギラしているわけで、冬でも昼間の太陽は直接に見ることができません。目が焼け焦げてしまいますので注意が必要。

でもよく考えると、そんな危険なものがつねに頭の上にあるというのは少し変な気がします。見てはいけないものがつねに空の上にあるというのも、なんだか危なっかしいです。少し顔を上に向けると視界の隅に危険なものが入り込んで、ああ、そっちを見てはいけない、と本能じみたものが警告を発してくれます。人生つねに危険と隣り合わせという教訓を示してくれているような気もします。そんな、直接見てはいけないものが、私たちの命の源であるというのも不思議でなりません。

以前こんな物語を読んだことがあります。大分前のことなので細かいところは忘れてしまいましたが、だいたいこんな感じ……

……ある貴族がある実験を企み、一人の赤子を買い取ります。さて、その実験とは何か? それは、その子にまったく太陽を見せず、太陽の存在も知らせずに、室内の人工灯の下で育て、そして少年に成長したときに、彼に初めて太陽を見せるとどうなるのか、そしてその太陽が沈んでいくのを見るといったいどうなるのか?というものでした。そして、この貴族は友人たちと賭けをすることになります。ある友人は、太陽が消えるのを目の当たりにした少年は気が狂って死んでしまうだろう、と予想します。さて、どうなることやら……

これはアレクサンドル・グリーンの「消えた太陽」という短編小説ですが、よく考えると(いや、よく考えなくても)あまりにも非人道的でおぞましい実験です。とはいえ、いったい結末はどうなるのか、それは読んでのお楽しみということで、ここでは伏せておきます。

普段は意識しないものがとても大切で、とても大切なのに直接目にすることができず、とても危険なもので、目にできるのはそれが生まれるとき(日の出)か死ぬとき(日の入り)だけだなんてどうにも不思議で、とても不思議なのに当たり前のように思ってしまう。昔から、そんな思考にときどき悩まされてしまいます。

   by こにりょ
posted by こにりょ at 11:56| Comment(0) | 名づけえぬもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月18日

図書館を見に行く

置戸町に行く。
「おけとちょう」である。
人口約3,700人。
図書館を見るのである。

農林業と工芸の町・置戸町。
北海道の北東部、常呂郡に位置する。
町の80パーセントが森林だという。
けれどもその小さな町の図書館が、数年前、日本図書館協会建築賞を受賞した。

早朝5時に札幌を出発。旭川を経由して石北峠を越える。
車でたっぷり6時間はかかる道のりだ。
高速道路を利用すれば、もう少し早く、到着するのだろう。
しかし急ぐ理由はない。
車でたっぷり6時間かける。

町を貫く国道242号線から、一本入った道路沿いに、図書館がある。
けれどもここで悲しい事実が判明。
休館日なのである!
呆然と、立ちつくすこと、1、2分。
除雪車がゆっくりと通りすぎていく。

気をとりなおし、ガラス張りのエントランスから、内部を覗く。
すぐに目につくのは大きな梁だ。地元産のカラマツで組まれた弧状の大きな梁が、何本も何本もわたされて、開放感のある高い天井を支えている。それに対して書架は低くしつらえられている。視線をさえぎるものはない。
一冊一冊の背表紙までは見えないが、それでも図書館全体があたたかく、親しみのもてる空間に見えるのは、採光が巧みになされているためだろう。
薪ストーブを囲む読書コーナーには、ゆったりとした間隔で、アームチェアが並んでいるのが見える。館内のインテリアの多くは地元の工芸作家の手によるものだという。このアームチェアも、きっと、彼らの作品なのだろう。

素晴らしい図書館。
しかし、である。

しかし、そこに、読書する者の姿はない。
暖炉のまわりでくつろぐ者の姿もない。
薪のはぜる音も、アームチェアに投げ出された脚もない。
ページをめくる指も、背表紙をたどる指もない。
ただ本だけが、どこまでも、どこまでも、並んでいる。

そして無人の図書館の中で、本たちには、なにより個別の影がないのである。
館内はほの暗い。
まるで、ページや背表紙や梁や柱や棚になる前の、巨大な一塊の樹木のように。あるいは、文字の上に文字が書かれ、その上にさらにまた文字が書かれ、行間が全く消滅してしまった一冊のフシギな書物のように。立ち入ることも読むこともできない、物の集積として、図書館はただそこにある。
それは、たとえば「歴史」だとか「記憶」などと呼んでしまうには、あまりにもずんぐりとして、不恰好で、あたたかいものだ。

★★★

冬至を過ぎたばかりの山間の町に、しんしんと、雪が降っている。
除雪車が、また、ゆっくりと通り過ぎていく。
なぜか少ししょんぼりとして、たっぷり6時間かけての、帰路につく。


     by ima.

posted by 面 at 00:00| Comment(0) | 名づけえぬもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月12日

造形作家・井上廣子は、世界各地の窓の写真を撮りため、『Inside-Out』(フォイル、2009年)という写真集を発表した。
とはいえこの作家が撮影する窓は、「窓」という言葉が通常喚起するような、明るく開放的なイメージをもつものではない。 写されているのは、精神病院や少年院や生活支援施設の、無味乾燥な壁面に穿たれた窓なのである。

カーテンを閉ざした窓。 鉄格子のある窓。 クリスマスの飾りつけが施された窓。 窓枠すら朽ち果てた廃屋の窓。 それらの窓を井上は、多くの場合は部屋の内側から、撮影していく。
もちろん、室内にあるものは、窓ばかりではない。 丸められたシーツやくぼみのできた枕、ベッドサイドの人形やプラスチックのマグカップ、歯ブラシや手鏡や点滴のチューブ。
窓からもれる光を受け、生活者たちの痕跡が、否応なく写り込む。

人々の痕跡や気配で満たされた室内は、しかし、どれも無人である。
ある室内から別の室内へ。 そして窓から窓へ。
ページをめくるわたしたちは、いつしか、無人の部屋にいるはずの、あるいはかつてそこにいたはずの住人に、近づいていく。
ほの暗い室内で、唯一、光をふくんでいる窓。 それが次第に、「外」の世界へと開かれた出口なのではなく、むしろ、「内」の世界の最果てのように、見えてくるだろう。
閉所にあることがつきつける、安堵と恐怖を、わたしたちも知るだろう。

けれどもこの安堵や恐怖は、「特殊な」境遇にある人たちだけが感応するような、病理学上の、あるいは社会的な要因に拠るものでは、おそらく、ない。
たとえばそれは、希望や絶望よりもさらに手前にある、もう少し原初的な、安堵と恐怖ではないか。
隔離のためにつくられた室内は、窓によって開かれ、同時に、窓によって閉ざされてもいる。 あるいはその場は、窓によって保たれながら、窓によって乱されてもいる。
窓を穿たなければ発動しなかったはずの、内とか、外とか、開かれとか、閉ざされとか。
安堵とか、恐怖とか。

井上が被写体として選択した、窓のある室内は、人を効率的に隔離する施設の一部である。
だが、井上の写真が示す室内は、それ自体としてすでに、ひとつの構造をもった病、四角い病巣でもある。

     by imamura (本サイト管理人C)
posted by 面 at 00:00| Comment(0) | 名づけえぬもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月06日

Pのデザイン

「日本で一番看板に使われているアルファベットは“P”である」

………………嘘です。僕の勝手な見解です。

でもそんな風に思わざるをえないほど“P”は実際多い。

あ、もちろんコレは駐車場の“P”ですね。
とにかくいたるところに“P”は存在している。
一般的に中心部といわれている町は“P”に始まり“P”で終わると書いても過言ではない。

あまりにピーピー視界に入ってくるので、“P”の写メコレクションをしてしまう僕(あ、先日35歳になりましたが何か?)……まぁそんなんで街を徘徊していると、ああ、ありました、お気に入りの“P”。

写メのものがそうなんですが、なんとパズル(!!)がモチーフの“P”を発見。

24hcp.jpg

“P”だからPUZZLEという、その脈絡のゼロさ加減と「もしかしてピースにもかかってるのか、おい!」と突っ込まずにおられない、まさにこの看板自体がこちらの脳をパズル化させる佇まいを持ってしまっている珍品ではないか。

うーん、たかが“P”、されど“P”。

にしてもだ。

たった一文字でコミュニケーションを成立させているアルファベット“P”の存在感はやはり凄い。
簡潔に万人に伝えるという事がデザインの基礎と位置づけるなら、ギュッとその定義をコンパクトに凝縮しきった“P”にはデザインの原点が見え隠れしている気もしないでもない。

そして今日もそんな“P”から放たれる“P”OWERにとっても嬉ピ〜くなるのだ。
って結局これが言いたかったんかいっ。

by kikuch

posted by 面 at 01:16| Comment(2) | 名づけえぬもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

学校標語めぐり。

「学校標語」めぐりの小旅行に出る。

数日ぶりの晴天である。水筒と弁当を用意し、腕まくりをして、車に乗り込む。

最初にあらわれたのは、

 「家のかど 子供の飛び出し 注意して」(小学校4年生)。

歩道橋の下に、ひっそりと、ある。シンプルな言葉選びにまずは驚く。「注意して」という言い回しが、命じるのでもなく、懇願するのでもなく、実に自然な標語風で、よい。「かど」だけが平仮名なのも、またよし。

交通安全関係の標語が、やはり、圧倒的多数を占める。

 「ゆだんする 軽い気持ちが 事故のもと」(小学校6年生)。

ドライバーと歩行者、双方に、等しく注意を呼びかける。のみならず、応用範囲の広い標語でもある。身につまされます。

 「ちいさな手 みえたらとまる いいこころ」(小学校6年生)

小学校6年生である。「小さな」「見えたら」「心」などの漢字は当然習得済みであろう。けれどもそれを、あえて、平仮名で処理してみせる。きっと、「ちいさな手」というのは、自分よりも年少の者の、そうした漢字をまだ習っていない者の手だろう。自分より幼い者と、自分より年長であるはずの運転者との間ののぞましい信頼関係を、幼さを仮構しながらうたいあげている。
ちなみに、この学校のすぐ近隣には、幼稚園があった。

自分の身を自分で守ろうという主張も、近頃の学校標語界では、多いのだろうか。

 「手をあげて 事故を防ぐのは 自分自身」(学年記載なし)。
 「一つだけ 自分の命 自分で守ろう 大切に」(小学校4年生)。
 「信号をあてにせず自分の目で確かめよう」(小学校5年生)。

そういえば、「校区内立ち入り禁止」「関係者以外駐車禁止」といった看板は必ずどこの学校にもあった。

もちろん、標語の内容は交通安全に限ったものではない。
たとえば、

 「がっこうは ゆめがいっぱい たからばこ」(小学校3年生)

と学校生活全般を称揚してみせる。あるい逆に、学校の外に潜む危険に注意を促し、

 「気をつけて 一人になるのを 待ってるよ」(小学校1年生)

と警告を発する。

標語は道徳の領域にも入り込む。

 「悪口は 人を傷つける 凶器だよ」(中学校1年生)。
 「おもいやり それはあなたの 宝物」(中学校1年生)。

当然、道徳は、親にも向けられるだろう。

 「やめなさい 親が言わずに 誰が言う」(PTA)。

これらの例では、七五調に乗せることで、特定の個人がつくり出した標語が、道徳律としての力づよさを帯びているようだ。リズムとして反復され、身体に沁み込んでいくことが、正しい道徳の、正しい道徳たるゆえんなのかもしれない。

★★★

普段、文字情報が多い街に暮している私たちは、学校標語にあまり目をとめない。街にあふれる文字情報の多くは、営利を目的とするものであれ、何かしらの主義主張を訴えるものであれ、自分の方を見るようにと、絶えず要求してくる。ある文字はデザインで訴え、ある文字は大きさで訴える。光ったり、点滅したり、回転したりもする。

そうした中にあって学校標語は、実に、つつましい。白い鉄板やベニヤ板に、多くの場合黒一色で、ごくありきたりのフォントで書かれている。設置するということ自体が第一の目的なんです、見られても見られなくても、どちらでもよいのですという、上品さがある。清楚である。いさぎがよい。

★★★

最後に母校にも行ってみた。

 「止まる見る 待つ習慣が 身を守る」

とある。子供ながら、なかなかよい標語である。
と思ったが、よく見ると実際には、PTAが制作したものなのであった。

by IMA

posted by 面 at 01:29| Comment(2) | 名づけえぬもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月04日

オマエハ、ダレダ

近年、主に1年生のために基本的な文章作法の授業を設ける大学が増えています。

私もあるところでそれを手伝っているのですが、
先日、同じ授業を別のクラスで担当しているAさんと、
「破格」というのをどうやって教えたら良いだろうか、という話になりました。

その大学で使っているテキストでは主に、主語と述語の関係が破綻していることを指して破格と言っています。

日常会話では、その意味での破格があっても要するに話が通じれば良いわけですが(ブログもね)、
レポートや論文ではそうはいかない。

その辺が感覚的に難なく使い分けられる学生もいますが、
さっぱりわからない、という学生もいます。

Aさんのご専門は分析哲学。
論理的思考にかけては最も長けた、というかこだわりの強い人たちの集まる学問分野と言えるでしょう。

そういう人たちが集まると、
日常会話においてすら、「破格」をはじめとする論理の破綻を見過ごさない独特の緊張感(?)が立ち込めるそうで、
ある日、一人の院生が帰りがけに

   「この傘、僕ですか?」

と口にしたところ、

   「いいや、それは君ではない」

と、一斉にツッコミが入ったのだとか。

もちろん、突っ込んでる方も単に面白がってるだけなのですが、
これは確かに、「破格」の好例。

それ、僕も授業で使わせてもらいます、と言った後で、
「でも、そこでむしろ、

   「そうだ、まさにその傘が君だ」

という返し方もありますよね」、と私。

宗教学の研究室(私はそこに属してました)なら、
そういう返しになりますよ、と。

寝不足のまま朝イチの授業を終えた後の、
ゆるーいおしゃべりのひとコマですが、
案外、それぞれの学問分野の特質を言い当てたところがあるなあ、
と、ちょっと後を引くおかしさが残ったやりとりでした。

     by 堀
posted by 面 at 01:09| Comment(0) | 名づけえぬもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。