2010年02月08日

神事と品格の曖昧な関係。

他のところにも書いたのですが、
やっぱり気になる朝青龍の一件。

神事なんだから横綱には品格を、
という言い方に接しますが、
どうも、神事ってことを狭く、また道徳的に(人事として?)考えすぎてるような気がします。

立ち会いからつかの間、
土俵から立ちあがる、荒ぶる神の依り代(憑依体)となり、
さて、どちらがどちらを鎮めるか――

私個人は、そんなふうに、相撲と神事との重なりを見ています。

いや、依り代(シャーマン)じゃあない、
祭司、神官(プリースト)であるからして、
神を前にしての礼節が求められるのだ、
という声もありましょうけれど。

歴史的なことは、私も少し勉強しなければ、
はっきりしたことは言えないのですが、
おそらくこの種の問題に関しては、文献的に実証できることは限られている。

両面が混在してるんじゃないかと思うし、
その混在がまた、面白いんじゃないかと思うんです。

     ★★★

破天荒な行動をする力士がいなくなった、
という話をどこかで読んだのは、ずいぶん前のこと。
その分、ハングリー精神も見られなくなってきた、という話でした。

外国人力士の勢いが増してきたのは、
そうしたことも理由の一つだったはず。

ある面では(ある面では、ですよ)、朝青龍は今どき少ない、
力士らしい力士だったのかもしれない、と。

問題は、場合によっては土俵の外でも荒ぶる神みたいな状態になりかねない力士という存在を、
暴走しないようにぎりぎりのところで制御できる人たちがちゃんといるかどうかじゃないでしょうか。
(お祭りの時だって、血気盛んな若者や暴れ馬を年長者が「どうどうどう」、とやる)

そういうネットワークの中でたち現れる「品格」を言うのなら、まあわかるけど、
他から切り離された個人の属性としてそれを横綱に求めるのは、
「無茶!」という気がします。

現代の日本でなお、ちょんまげを結っている超・少数派集団として、
過度に「おさむらい」的な儒教道徳を求められるのは、
ちょっと気の毒です。

もっともっと広いスケールで伝統というものを考えたい。

江戸時代の、しかもほんの一部の武士的な価値観を日本の伝統のすべてとは考えたくないです。
先ほど憑依とかシャーマンという言葉を使ったのは、
そこに異国とのつながり――例えばモンゴルにも共通するもの――があるからです。

     ★★★

力士の教育に全力を、って言うけれど、
おさむらいと神官ばかりが土俵の上にいて、
肝心の神様がいないような事態になるのは寂しい。

神様信じてるの?とか、そういう問題ではなくて。

神事というのはさしあたり、
人知や人力では制御しきれないものに対して、
そこに住む人々がどういう姿勢をとるか、
ということを表現するものだと思うので。

たとえ信じてなくてもおろそかにはしたくない、と思うのです。


      堀マサヒコ


posted by 面 at 00:43| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

信じてないからこそ。

「来世でな!」

と手を振り、去りゆく男(千原ジュニア)。

ずいぶん前に見たドラマのラストシーンですが、
なんだか妙に、心に残っています。

     ★★★

「深く潜れ ― 八犬伝2001」。
検索してみたら、NHKのサイトが残っていました。
http://www.nhk.or.jp/drama/archives/dd/index.html

前世を知るための無人島ツアーという、
なんとも怪しげな旅に集まってしまった人々の物語。
そうだったけか。 細部は忘れてしまったけれど、
確かになかなか面白いドラマでした。

数年前のNHK朝ドラ「芋たこなんきん」でも、
主人公(藤山直美)が死んでしまった亭主(國村隼)の写真に向かい、
「来世でも私を見つけてね」と呼びかけるシーンがありました。

が、こちらは原作の田辺聖子が江原ファンなのを知っていたので、
正直、すっごく白けてしまった。
藤山直美も國村隼も大好きなのに。

     ★★★

来世で、という言葉が心に響くのは、
反面、来世なんか無いだろうなあ、と思っているからこそじゃないかと。

もう二度と会えないという思いがズキズキと胸に迫っているからこそ、
来世で会おうよ、と笑って別れることにも一定の重みがあるわけで。

芸能人カップルが「パワースポット」セドナへの旅に出かけ、
歌舞伎役者が意中のひとに「来世も再来世も一緒に」と甘い言葉(?)をささやく、
あちこちスピリチュアルな今日この頃。

来世があるらしいよ、てな話がアタリマエになってしまったら、
これまで人類が色んな形で来世やあの世を語ってきたことの意味が、
すっかり消えてしまうような気がして。

あまのじゃくですかね。

     by 堀マサヒコ

posted by 面 at 01:43| Comment(2) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月31日

「孤立」をうながす、広大な問い。

東京の国立近代美術館で開催中のゴーギャン展。

日本初公開の大作、
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
も来ている、そうで。 (下記URL参照)
http://www.gauguin2009.jp/

そんなタイトルをつけるなんて、
ちょっと野暮じゃない?
てなことを、若いときには思ってたんですが。

芸術も哲学も宗教も科学も、
すべてはこの問いにたどりつく、という気が、今はしています。

答えを知りたい、ような、
絶対に知りたくない、ような。

ともあれ、この絵の前に、一度は立ってみたいものです。

できればたった一人で、
と思うのは、

やっぱりこのタイトルのせいでしょうか。

   written by 堀マサヒコ
posted by 面 at 00:00| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月11日

ことば

テレビを見ていたら、名古屋市長の河村氏が名古屋弁の復権を目指しているという。
言葉は文化を構成する重要な要素で、方言に誇りを持つことは地元意識の向上にもつながるというのがその根拠らしい。そのおり、「織田信長も名古屋弁をしゃべっていたんだぎゃや」と言っていたのが印象的だった。

そこで最近話題のレッドクリフの一場面を考えてみた。諸葛亮が孫権を説得するシーンで、ふたりの間ではどのような言葉が交わされたのだろうか。

諸葛亮は長江より北の出身で、長江の南に育った孫権と会話が成立したのであろうか。現在でも中国各地には方言があって、お互い地元言葉で話したら通じない。そこでいまは普通語(標準語)を設けてテレビ・ラジオで流したり、学校で教えたりしているので方言と普通語のバイリンガルが増えている。

しかしいまから1800年前はどうだったのだろう。秦の始皇帝は文字は統一したが、言語は統一しなかった。漢字は表意文字であるので、書けば意味がわかる。しかし言語は統一されずに今日まで方言として残っている。

では、諸葛亮はどうやって孫権と交渉したのか。書面で遣り取りしたのだろうか。『三国志』のなかでは諸葛亮が孫権に語りかけ、孫権もそれに答えたことになっている。ということは、二人は共通する言葉を利用していたと思われる。

5世紀末の事例だが、北方の遊牧民族鮮卑が建てた北魏では、鮮卑語と漢語という漢語の方言以上の言葉の壁を抱えていた。それをどうやって克服したかというと、はじめは両言語に通じた漢民族を通訳として使っていたが、6代目の孝文帝のとき、朝廷で使用する言語は「正音」(当時の河南方言)にすると定め、共通語を設定することで言葉の壁を乗り越えた。秦漢の400年のうちに朝廷で使用する共通語が成立したとしても不思議ではない。その共通語で官僚予備軍は大学の講義(儒教の経典をはじめとする古典)を聴き、音読したであろう。

諸葛亮も孫権もいずれも後漢の官僚に連なる家の出身者であることから、なんらかのかたちで共通語をマスターしていたであろう。よってレッドクリフのあの場面で二人が現在の普通語で会話していたのはある意味正解ということになる。そこに当時の中原漢語の発音を求めるのは無理というものだ。

松下憲一 (東洋史)
posted by 面 at 00:00| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月27日

食と文化と文明と。

宗教の食餌規定の多様性や、生命倫理学などで話題の「動物の権利」や「動物福祉」の問題などを考えているうちに、人間と動物との関係を、自分自身の日常生活、特に食生活の面から考え直してみたいと思うようになりました。

非常勤先の大学で「人間論の基礎」という授業を担当していることもあり、何か映像資料をもとに、学生と一緒にこのことを少し考えられないものか、と思い、候補として、以前から気になっていた二本のDVDを見てみました。

一つは、
ジブリ学術ライブラリー「人間は何を食べてきたか」全8巻中の第1巻。
三つのセクションに分かれた一つが、主にドイツの肉食文化のありようをレポートしたもので、農家の庭先で豚が解体されるシーンが含まれています。

もう一つは、
2005年に公開され、日本でも話題になった「いのちの食べかた」。
(ニコラウス・ゲイハルター監督、オーストリア・ドイツ合作)
こちらは今日の機械化・工場化された食品生産の状況が、その中で「生産」され、「加工」されていく鶏や豚、牛などの姿を淡々と映しこみつつ、描かれています。

どちらもセンセーショナリズムや感傷に訴える演出を排した良質の作品ですが、それだけに、屠畜の場面に関しては主に活字やイラストを通しての想像にとどまっていた私にとっては、多少とも動揺を伴う内容ではありました。

しかし、一口に屠畜の場面といっても、受ける印象は二つの作品において、ずいぶん異なっています。
より強い動揺を覚えたのは、圧倒的に後者です。

前者がもともとNHK教育テレビのスペシャル番組として放映されたもので、いくつかのシーンを静止画像で処理するなど、ある種の配慮を感じさせるせいも(いくぶんかは)あるかもしれません。

しかし、本質的なのはやはり、映されている状況そのものの違いでしょう。

前者における、農家の庭先でのそのシーンは、レポーターを務めた女性自身が語るように、解体を行う職人のナイフ裁きの見事さや、それを静かに見つめる、この農家の少女の眼差しに吸い込まれるような感覚があり、何か神聖な儀式を見ているような気にさえなってきます。

後者においても、もちろんその作業を行う人たちはいるのですが、機械が媒介、あるいは見ようによっては主体となっている要素が強いせいか、職人というよりは、作業員とかオペレーターという言葉があてはまるような印象です。

光が人工的だと、それに照らされるものも人工的に見えてくるというのは、以前、私が全く別の文脈で自分のブログの中で書いたことなのですが、後者の作品を見ていても、そのことは実感されます。

農家の庭先で、太陽の光のもと繰り広げられる光景がドイツ文化の一端を垣間見させてくれるのとは異なり、青白い照明にまんべんなく照らし出された食肉工場の風景は、どこの国のものでもあるようで、同時にどこか、現実から遊離した世界のようにも見えます。

文明のみがあり、文化の脱色された世界とでも言うべきでしょうか。

もちろん、この作品は、食品生産の機械化や、ましてや肉食文化そのものを大上段に告発するというような意図のものではないでしょう。

夜間、街路灯に照らされた木々の「不自然な」緑が独特の美しさを感じさせるように、この映画の中にもやはり、ある種の美があることは確かです。

この美を自分の中でどのように位置づけたらよいのか。
答えはまだ見つかっていません。

     by 堀(宗教学)
posted by 面 at 00:00| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月20日

あとがきを読む

推理小説、ミステリィ小説の「あとがき」「解説」だけを100冊分読もうと思い立ち、まなじりをけっして図書館に向かう。本篇は読まない、あくまでも「あとがき」「解説」だけだ、と悲壮な決意で向かう。

まず、簡単なルールを定める。
一、50音順に、手当たり次第、読むこと。
一、本編はもちろん、あらすじ、作者略歴等も読まないこと。
一、手にとった本は棚に戻さず読むこと(ただし推理小説、ミステリィ小説でないと判明した場合は除く)。

予め結果を述べておくと、100冊分読了することは、できなかった。なぜか。

★★★


苦痛は最初、ある種の「もどかしさ」として、あらわれる。作品の性質上、具体的な記述は差し控えるのだと、解説者たちが口を噤む場面である。
「未読の読者の興をそぐことになるので、具体的な作品名は挙げられない」(歌野晶午『さらわれたい女』、解説:法月綸太郎)
「解説から先に読んでいる読者のために具体的な指摘は出来ない」(二階堂黎人『ユリ迷宮』、解説:千街晶之)
要するに、「未読の読者の興味をそがないよう、なるべく遠巻きにして」(綾辻行人『黒猫館の殺人』、解説:法月綸太郎)語らねばならないのである。

遠巻きに語ろうとするためか、解説者たちの前置きは、長くなる。
「以上、長々とした前置きはこれくらいにして、本論に入る」(東野圭吾『放課後』、解説:黒川博行)
「さて、洒落にならないくらい前置きが長くなってしまったが」(森博嗣『冷たい密室と博士たち』、文庫版解説:西澤保彦)
「さて、前置きが長くなった。そろそろ本題に入らねばならない。」(法月綸太郎『雪密室』、解説:三橋暁)
まったく、もどかしいのだ。

とはいえ逆に、解説が具体的すぎる場合にも、問題が残る。
「以下、事件の真相に触れている箇所があるので、本編読了後にお読みください」(京極夏彦『魍魎の匣』、解説:山口雅也)
「本作を未読の方はご注意ください」(岡嶋二人『99%の誘拐』、解説:西澤保彦)
「以下、当然、内容に触れることになる。作品から先にお読みいただきたい」(宮部みゆき『我らが隣人の犯罪』、解説:北村薫)
せっかくの忠告ではあるが、ルールに従う以上、本を棚に戻すことはできない。かといって、今すぐに、本編を読むこともできない。うしろめたい気持ちを抱えつつ、ページをめくるしかないのである。

ところで、この「うしろめたい」気持ちは、一体何なのか。作者と解説者に対して非礼をはたらいているという、一種のやましさだろうか。30作目あたりまではそう思っていた。けれどもやがて、そうではないと、感じ始める。ここでのうしろめたさは、道義上のものではなく、もっと不気味で、不吉で、まがまがしい種類のものではないか、と。

どうして不吉で、まがまがしい印象を受けるのか。うまく説明することはできない(できていれば、それほど不吉ではないだろう)。

作品世界と外部世界とをつなぐ、いわば緩衝地帯としての、「あとがき」「解説」。そこは既に小説作品そのものではないが、確かに作品と同じ本の中で、となりあっている領域だ。その親密さを無視し、緩衝地帯だけに上がり込みむこと。作品世界を遠巻きに、出口の側からだけ覗こうとすること。それが、どういうわけか、不気味な行為のように感じられたのである。当初の意気込みは萎え、結果的に、100冊分を読むことはできなかった。

★★★


次は学術書の「あとがき」を読もう、と懲りずに思い立ち、図書館を後にする。

written by IMA
posted by こにりょ at 00:00| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月30日

性格

性格って何だ。 よくそんなことを考えます。

性格の類型に興味があるというよりは、
むしろ、性格をもつって、そもそもどういうことなんだろう、という漠然とした疑問。

まず、性格のコアみたいなものとして、感情のパターンがあると思うんです。 ある種の状況に直面したとき、どう応答するのか。 たとえば、同じ状況であっても、びびってしまう小心者(私)がいる一方で、まったく動じないタフな輩もいる。

それから、世界の眺め方。出来事をどんなふうに意味づけているのか。 どんな出来事を中心にし、どんな出来事を周縁に置くのか。そういうのも性格のコアですよね。 たとえば、心配症の人にとっては、家の鍵をかけたという事実や、かけていないという事実が、他の事実に比べて途方もなくビッグな意味を帯びているんだけれど、逆に、そんなのまったくどうでもいいわ〜というアバウトな大人物もいるわけです。

それにしても、性格ってそれなりに変わるもんだと思うんですが、その経路はどうなっているのか。 そこんとこ、気になります。 環境や人間関係が変わることで、世界の眺め方が変わるというのはけっこうありそう。 「役職が人を作るんだ」みたいなことが世間でよく言われますが、役職につくことで、出来事の意味づけ方が変わるというのはやっぱりあると思うんです。 感情のパターンは変わるのに時間がかかりそうですが。

性格の変化といえば、悩ましい問題もあります。 たとえばAさんが「自分の性格が変わってしまったときには、・・・してくれ」と僕に要請したとします。 で、僕は「OK」と約束する。 そして、時が流れて、Aさんの性格はずいぶん変わってしまう。僕は約束したことを実行しようとするんだけれど、いまや異なる性格になったAさんはそんなことをしてほしくない。 僕はどうしたらいいんだろう。

法律上、何が合法か、ということが問題なのではなくて、むしろ問題は「僕は誰に向きあえばいいんだろう」というようなこと。現在のAさんの意思を尊重することで、僕がそれまで向きあっていたAさんの存在や、Aさんとの関係性が、否定されてしまう。 あるいは、そこまで言わなくても、宙に浮いてしまう。 その何ともいえぬ居心地の悪さ。 性格が変わっていなければ、ただ単に「要請の撤回」ということでいいんですが、性格のおおきな変化が伴うと、なんだかずいぶん悩ましい話になってきます。

「かつてのAさんは心のなかにいるだけで、もはや存在していない。 存在しているのはいまのAさんなんだから、その意思を尊重すべし」。これは、実践的な決着のつけ方としてはわかりやすいかも。 でも、そのわかりやすさは居心地の悪さを完全に消し去ってはくれない気がします。

それが何故なのか。 ひょっとすると、時間の積み重ねとか、記憶とか、そういったものが、他者との関係性のけっこう大事な部分を占めているからなのかもしれません。

          by pockley (倫理学)
posted by 面 at 00:00| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月09日

宗教が一つになれば?

またまた登場、の管理人です。

大学で宗教学の授業を担当させていただいて、
7年目になります。
ほぼ毎回、学生の皆さんに質問やコメントを書いてもらっているので、
その数は膨大になります。

それらにスパッと明快に答えて見せる、というのはいまだにうまくできないのですが、
少なくとも「よくある質問」というのがかなり把握できてきた、という面はあります。

          ★★★

たとえば、「世界中の人がみんな同じ宗教を信じれば、
戦争のない平和な世界になるんじゃないでしょうか」、というもの。

ずいぶんと無茶な想像だと思いますが、
わりと頻繁に見られるコメントの一つです。

確かに、すべての宗教が統一され、宗教の違いがなくなれば、
宗教の違いによる戦争はなくなるでしょう(当たり前ですが)。
しかし、それ以外の戦争はなくならないかもしれません。

それにまず、すべての宗教を統一するために、
とんでもなく大量の血が流れなければならないでしょう。
たとえ、その果てに戦争のない状態がもたらされたとしても、
それを「平和な世界」と呼べるでしょうか。

          ★★★

それにしても、宗教の違いが一切なくなった状態とは、
いったいどういう状態なのでしょうか。

ある哲学者が、
万人が神の存在を信じれば、それは「信」よりも「知」の問題として処理されることになるだろう、と言っています。

実に、そのとおりだと思います。

何かを「信じている」、という言い方は、
一方でそれを信じていない人がいるからこそ成り立つものでしょう。

「世界中の人がみんな同じ宗教を信じれば」
という仮定は、結局、宗教というもの(より正確には、宗教を「信じる」ということ)がこの世から無くなった状態を想定することになるのではないでしょうか。

実際、
「この世から宗教が無くなってしまえば、世界は平和になるんじゃないでしょうか」というのもまた、わりと数多く目にするコメントで。
趣旨は上のものとあまり変わらないのではないかと思います。

この種のコメントに対しては、
「君たちはまったく、命をかけて戦争に反対してきた宗教者の存在を知らんのか」、と、お怒りになる先生方もいらっしゃるかもしれません。

しかしながら私はむしろ、
「宗教の統一」という仮定を取るにせよ、
「宗教の消滅」という仮定を取るにせよ、
そもそも人々の間に違いや、違いを生み出す要因がなくなればこの世は平和になるにちがいない、という何とものっぺりとした発想自体が、どうも理解しがたく思います。

違いを無くすことよりもむしろ、
違いを許容し合える世の中を作ることのほうがよほど大事なんじゃないだろうか、
と、ありきたりでもやっぱり、言わずにはいられません。

          written by 管理人(堀)
posted by 面 at 23:59| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月22日

「面(おもて)」の道は東洋思想に通ず?

はじめまして、私は今回から「面」の活動に参加させていただきました札幌で鍼灸をしている福田というものです。

『「問う人、つくる人をつなぐ」を合言葉に、様々なジャンル、様々な立場でアートや学問に関わっている人たちが集い、情報交換や共通言語の模索を行なっています。』

という「面」の趣旨に賛同いたしまして参加させていただきました。

というのも何となく「面」の趣旨って東洋的なもののような気がするからです。

「面」の趣旨って一言で言うと「つなぐ」ということなんだと思います、バラバラなものが実はつながっているのを見付けることなんだと思います。
(堀氏、間違っていたらゴメンナサイ!)

近代合理主義以降の西洋思想により様々なものが細分化されていったような気がします。
学問も社会のあり方も人々の生活も、もちろん大きな成果もあったわけですが失ったものもあったと思います。
これは西洋思想は「同じ」よりも「違い」を重視している為なんだと思います。

一方、東洋思想は、
(一口に東洋思想といっても中国思想、インド思想、イスラム思想とあり、中国思想一つとっても儒教思想、老荘思想など様々ありますし、西洋思想と東洋思想という分け方もどうかと思いつつ・・・独断と偏見で先に進みます。)
共通性を見出しつながっていく思想なんだと思います。

東洋思想は(中国思想を前提にしています。)陰陽理論、五行理論、十干十二支の理論などの道具を用いてリアル(真実)を表現していきます。
例えば五行理論(世界を木・火・土・金・水の五つのパターンに分けそれぞれの相互作用で世界を説明する見方)で、金は身体でいえば肺・大腸・皮膚など、味は辛味、色は白、方角は西、季節は秋など一見すると関係無いものが金という性質でつながっています。
アトピー性皮膚炎をステロイドなどで無理に抑え付けるとアトピーは治っても今まで無かった喘息が出ることがあります。
これなどは肺と皮膚が密接な関係に在ることを示していると思います。

私の専門の鍼灸で身体を観た場合、
一つ目は経絡というネットワークでのつながり。
胃をレントゲンで撮りながら胃の経絡上の足三里というツボに鍼をすると胃の働きが活発に動く様子が見れます。
胃に関係する神経は足に来ていませんのでこの現象は西洋医学ではうまく説明できないようです。 
二つ目は部分と全体の関係で部分が全体を反映しているというかたちでのつながり。
耳は胎児が頭を下にしている状態として身体全体を反映しています。
これは耳だけの特異性ではなくて手、足、お腹などすべて部分は全体を反映しています。
もちろん、手は足やお腹とは異なりますから部分は部分としての独自性ももっています。
西洋医学では手は単なる手ですが、東洋医学では手は手という部分であると同時に身体全体を反映した全体でもあり、経絡というネットワークで他の部分ともつながっています。
このように東洋医学での身体は経絡というネットワークの見方、全体が反映される部分としての見方、単なる部分としての見方など、それぞれが独立した法則で成り立つ多元的な身体です。
そしてそれぞれの次元は基本的には独立しながらもつながっています。

このような「つながり」の極致に気一元の思想というのがあります。
東洋思想の根本の考え方の一つで、これは物質も生き物も全てのものは気からできており(気によって生まれ)、気によって存在しており(気によって生かされ)、気によってつながっているというものです。
つまり全てのものは気によって一つにつながっているというか、ひとつなんです。

というわけで、「全ての道は ローマ へ通ず」ならぬ「裏道」ならぬ「面(おもて)」の道は東洋思想に通ず!でした。(笑)
posted by 面 at 01:16| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月15日

パズル

こんにちは。pockleyといいます。
いきなりですが、パズルの話。

ちまたにはいろいろな種類のパズルがあって、なかにはおそろしくリクツっぽいやつもありますよね。

僕が好きなのはそういうのじゃなくて、もっとシンプルな、ジグソーパズル。あれ、独特の楽しさですよね。ピースを手に、ああでもない、こうでもないと探りながら、配置していく。ピースどうしがうまくはまると、ニンマリ。ある絵柄の部分と、別の絵柄の部分をべつべつに作っていて、それが予期せず合体するときは、その展開にちょっと感動しちゃったり。

絵を完成させることは、いちおう目的としてあるし、自分の好きなタイプの絵じゃないとヤル気も起きないんだけれど、絵の完成自体は、ある意味どうでもいい目的なんですよね。むしろ、そこに向かうプロセスのなかに楽しさがたくさん潜んでいるわけです。

パズルと言えば、何という名前かわからないけれど、いろんな形の木片を組み合わせて、「T字」や「台形」なんかを完成させるやつ。あれもじつに楽しい。やみくもに木片を動かしているうち、ふいに形ができあがると、大感動もので、脳内でいろいろ分泌しちゃいます。以前、温泉旅館に泊まりにいったら、なぜだか部屋にそのパズルが置いてあり、夜遅くまで夢中でやってしまった。何やってんだという感じですが。

えーと、それで本題。パズル作りじゃなくても、それに似た思考って、たくさんあるような気がする、という話。

たとえば僕は、抽象的なことをモワモワと考えて、人と議論することがあるんです。そのプロセスって、パズル作りにかなり似てる気がします。断片的なアイデアがとりあえず手もとにあり、それを組み合わせていく。うまくフィットすると嬉しいし、相手が持ってきたピースと思いもよらぬ合体を遂げると快感は大きい。

それから、議論するときって、完全に「行き先不明」のケースってあまりないんですよね。むしろ「自分の向かいたいところ」が漠然とあって、それをめざして手持ちのアイデアを動員していく。それは、全体像を予期しながらピースを組み合わせていく作業と、よく似ています。

自分で文章をつくる作業も同じような感じ。ときに論文というものを書くんですが、考えがすでにすっかりまとまっているときって、論文を書く作業が、ぜんぜん楽しくないんですね。優等生的な作文を書いてる感じで。逆に、あまり考えがまとまってないうちに書き始めると、これがなかなか楽しいんです。書きながら、目的地に何とかたどりつくべく、あれこれ試していくというんでしょうか。

もちろん、それは効率性という点でみればまずいやりかたで、いちど書きあげたものをすべて削除することもしょっちゅう。しかも、ほかの人からすると、ひどく読みにくいものになっている可能性もあります。でも、文章から本人のそういった思考のプロセスが垣間見えるのって、楽しいことなんじゃないかなあ。

その昔、受験生の小論文を添削するバイトをしたことがあるんです。小論文って、いくつか掟があって、パズル的な思考のプロセスをそのまま出した文章って、基本的にダメなんですよね。むしろ、ひたすら論理、論理で、論拠やら結論やらが、きれいに整理されていることが重視される。でも添削していて、そういった「よくできた」小論文って、やっぱしどこかつまらないわけです。

大学の学生さんが書いたレポートも同じで、まとまりすぎているものは、その内容がどうであれ、読んでいてどこか楽しくない。わかりやすいけれど、ワクワクしない。むしろ、書いている途中で本人がいろいろ発見していくプロセスやら、その興奮やらが伝わるような文章は、すごく楽しい。

思考のプロセスをそのまま出すことって、すごく大事なことなのかもしれませんね。

この文章も、そういう面で成功しているといいんですが。
う〜ん、ちょっと微妙?

*************

 今週は倫理学研究者のpockleyさんに登場していただきました。
 来週もお楽しみに!
posted by 面 at 00:00| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月01日

有相の神、無相の神

今日から師走ということで、メンバーの皆さんも多忙のようです。
そんなわけで、またもや管理人の登場となりました。 

今日は先回の佐藤さんの記事でも神さまのことが話題になっていたこともあり、
広い意味での神イメージ、宗教学では神表象、などと言われるものについて、
少し書いてみます。

**********

様々な宗教において、人々が広い意味での神をどのように思い描いているか。
この問いに関して、次のような対比が用いられることがあります。

―― 神が何らかの姿・形のもとに思い描かれる場合と、
    そうではない場合。

たとえば脇本平也氏は『宗教学入門』(講談社学術文庫)の中で、
この対比を「有相の神」と「無相の神」という言葉で紹介しています。

前者はさほど説明を要さないでしょう。
「植物や動物の姿を有する神とか、擬人的に人間の相をそなえた神」などがこれにあたります(同書、130頁)。

他方、後者は「色なく形なく、おおよそ人間の考えうる姿や形態を超えた存在として捉えられる神」(同)、ということになります。

脇本氏はここで、
有相の神/無相の神という対比は多神教/一神教という対比とゆるやかに対応する、と解説しておられます。
氏が「概して言えば」と強調しているとおり、
大枠の議論としては、確かにそのような対応関係があると思います。

有相の神の典型として想起されるのは、
多神教の典型でもあるヒンドゥーの神々であり、
あるいは古代のギリシア、ローマ、エジプトなどの神話の中でドラマを演じる多種多様な神々でしょう。

他方、
ユダヤ教、キリスト教、イスラームの神(基本的に同一のものを指します)は、
人間の知性や想像力のフレームに収まりきらない存在だとされますので、
その「無相」性は絶えず強調されることになります。

しかしながら、私たちにとって身近な(はず)の日本のカミサマは、というと、
八百万の神と言われるように多神教の典型と見えながらも、
「有相の神」と言えるかどうかが、そう簡単には決しがたい性格を持っています。

なるほど、年賀状(用意しなきゃ!)の絵柄でもお馴染みの七福神などは、
まさに「多にして有相」の神の典型のようにも見えます。
いささか唐突ですが、「千と千尋の神隠し」に登場する神さまの表現なども、
その延長線上にあるように思います。

しかし、歴史的な過去を辿れば、
もともと日本におけるカミは、それ自体は姿・形を持たず、
ただ山川草木など有形のものに「宿る」とか「よりつく」というふうに考えられていたようです。

多種多様な神像のたぐいが作られるようになったのは、
外来の神像文化・仏像文化の影響によるものと言われています。
七福神の神々も、それぞれがインドや中国の神々をもとに造形されたものであり、少なくともルーツにおいては「外来の」神だと言われています。

このような事情から、日本の神は「多にして無相」の神である、
というふうに議論を持っていく人もいます。

しかし、これもやはり、そのように言い切ってしまうのは少し乱暴でしょう。
有形のものに無形のカミが宿る、という古来の考え方は、
外来の神像文化・仏像文化を受け入れていく過程で失われたわけではなく、
むしろその受容の素地として、多少とも生き続けたはずです。

根底的には無相性を前提としつつ、
あらゆる姿・形を「仮のもの」として受け入れるというような、
いささか入り組んだタイプの神表象の伝統が、
日本にはあるのかもしれません(もちろん、それが日本に独自だとは限りません)。

いまだぼんやりとした思いつきのレベルですが、
このあたりの問題、少しずつ突き詰めていきたいと思っています。

※ 今回の記事から、コメントを受け付けます。
   持ち回り式のため、筆者による応答が滞ることもあるかもしれませんが、
   その点はご容赦ください。
posted by 堀(宗教学) at 01:01| Comment(2) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月17日

メーと鳴くロバの話。

社会学者のジョン・モリオールによれば、「ユーモア的笑い」の大半は、
われわれが平素用いている「世界図式」とのズレを伴うような経験
によって引き起こされる、といいます(『ユーモア社会を求めて』新曜社)。

禅関連の書物を拾い読みしていると、しばしば、
まさにモリオール言うところのユーモアの好例と思える一節につきあたります。

たとえば『臨済宗』の中の、有名なエピソード。

臨済院に現れた風狂の禅僧、普化(ふけ)。
生野菜をがつがつとたいらげるその様子に、臨済は唖然。
そこから始まる二人の応酬を、
柳田聖山著『禅思想』は次のように紹介しています。

  臨済は思わず言った、
  「きさまの食い方、まるで驢馬だ」。
  普化はうしろにさがって両手を地につくと、
  一声「メー」となく。
  臨済は何も言わぬ。
  普化の方がいう、「小僧め、片目しかない。」

驢馬みたい、と言われて即座に「メー」と切り返す、このセンス。
さらに悪乗りしてちょっと手を加えれば、
これはそのまま漫才のネタとしても通用しそうです。
沈黙するしかなかった臨済の限界を、
タカトシあたりにぜひ、軽々と超えてもらいたい。

  臨済:「その食い方・・・オマエは驢馬か!」
  普化:「メエエエ」
  臨済:「・・・って、ヤギかいっ!!」
  普化:「ニンジンちょうだい」
  (以下、延々と続く)

このように、更なるバカバカしい展開を想像したくなる柳田版の紹介、
『臨済録』をお読みになった方ならお気づきでしょうが、
実は、原典に忠実ではありません。

臨済から「大似一頭驢(大いに一頭の驢馬に似たり)」と言われた普化の応答は、
「便作驢鳴(すなわち驢鳴をなす)」。
驢馬の鳴き声を立てた、というだけのものです。

念のため、驢馬の声を聴けるサイトで確認しましたが、
どう聴いても「メー」とは表記しがたい音声です。

著者、故・柳田聖山氏は、言わずとしれた禅思想史研究の第一人者。
これはまあ、弘法も筆の誤り、というべきたぐいのものなのかもしれませんが、
禅思想の精髄を知る著者のこと、
敢えて原典にもう一ひねり加えることで、
いっそう原典の息遣いに近づけると考えたのでは?
との憶測も排除できません。

あるいは、原典における「驢」とは、
私たちの言うロバとは別の動物ではないか、との疑念もありますが、
それを支持する証拠には、今のところ行き当たっていません。

いずれにせよ、
モリオール言うところの「世界図式」の脱臼をうながす点において、
ある種の笑いと禅思想とはかすかに触れ合うにちがいない、と考える私は、
入矢義高氏の行き届いた訳注による『臨済録』(岩波文庫)を手にした今でも、
メーと鳴くロバの映像を頭から追い払うことができずにいるのです。
posted by 堀(宗教学) at 03:15| 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。