2009年11月30日

ノベルティのデザイン

          thoma.jpg

コンビニでやおら目にするのが飲料水などについている“ノベルティ”だ。
キャラクターを模したフィギュアから実用性のあるグッズまでさまざまな“ノベルティ”がその商品以上に魅力的なオーラをかもし出しながら鎮座している。
“ノベル茶(ティー)”というお茶のノベルティがあってもおかしくない。
いや、おかしいだろう。

…かくゆう僕もアイデアソースとして購入したり、webなんかだと個人でも割と安価で作れるノベルティも多いのでサイトで「あーコレでアレを作ったら面白そうだなぁ」とかぼんやり眺めることも多い。

こういうノベルティ、別に昨今に始まったことじゃなくて昔から存在してた。

コーンフレークに封入されてるとか、あ、有名なウェハース状のチョコにもシールが入ってたり。
あれもノベルティっちゃノベルティですよねぇ。

そう考えてくと、それこそ大昔から存在してたのかもしれない。
枕草子にはなぜか“よりぬき万葉集”がついてたんじゃないかとか。
生類憐みの令には“家庭菜園用の種”がついてたんじゃないかとか。
いや、おかしいだろう(しかも法令だし)。

いずれにしろノベルティはノベルティ然としていなければならない。
主役よりも主張しているようなノベルティはやはり目につき、その商品価値を疑ってしまいかねない。
やはり常にその商品価値を助長する佇まいだったり、商品特徴をさりげなく表現した、まさに“縁の下”の存在のノベルティが心地よい。 
つまりノベルティがペナルティにならないように、と書きたかったんである。
いや、おかしいだろう。

(冒頭の写真も某英国の機関車キャラのノベルティ。 興味ないのについつい集めたくなる&踊らされる)

追記:
手前ミソですが、東西線・大通駅〜バスセンター前駅コンコースでの展示が本日30日までです! 
詳しくは自分のブログの記事で↓。 
まだ見てない方は今すぐゴー!
http://thebackyard.blog21.fc2.com/blog-date-20091113.html

さっぽろアートステージ「500m美術館'09」
日時:11月30日(月)まで
場所:地下鉄東西線「大通駅 - バスセンター前駅」コンコース

   written by kikuch
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2009年08月17日

鍼灸師さんの独り言。

鍼灸師の福田さんがHP上で連載しているエッセイ、「院長の独り言」

「山椒は小粒でもぴりりと辛いというような、ちょっとためになるトピックを」、というコンセプトのとおりの内容で、
毎月、楽しみにしています。

そこで推薦されていた尹雄大氏の『FLOW/韓氏意拳の哲学』という本に出会えたのも私にとっては一つの収穫でしたし(2009年6月)、
中国語の「カンフー(功夫)」という言葉を糸口にして、

 「中国人・東洋人の時間の積み重ね・歴史の積み重ねに対する絶対的な信頼」

に思いを馳せるあたりにも、ハッとさせられました(同7月)。

福田さんとは実はむかし、同じ会社に勤めていたのですが、
それぞれの理由でそこを離れてから、はや十数年。

別々の道を歩み、その間、決してマメに連絡を取っていたわけでもないのですが、
いま考えていることが意外なほど響きあうのは、実に面白いことです。

それぞれがウサギと亀の決して前者ではない生き方をしてきて、
「遅さの哲学」みたいなものを共有しているせいかもしれません。
おとぎ話の亀のように「勝てる」思想なのかどうかは、わかりませんが。

と、個人的な感慨はさておき。

本サイトとあわせて上記「院長の独り言」もぜひ、
覗いてみてください。
(それより鍼灸院の宣伝をしてよ、という声も聞こえてきそうですが。。)

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2009年04月06日

変わるもの変わらぬもの

中国の古典に『易経』という書物がありますが、これは占いの本でありますが深遠な東洋の哲理が書かれた本であるともされています。
この易は何回読んでも難解なのですが(笑)、この易には三義ありといいまして易は世界について三つのことを表現しているといわれています。

一つは変易、これは変わるということ、易は変わることを表しているというものです。
易(正確には『易経』)は西洋で変化の書(『book of changes』)と訳されていますが変化する世界を易は表しているところから付けられたのでしょう。
二つ目は不易、これは変わらないということ、易は変わらないことを表しているというものです。
先ほどの変易と矛盾するようですが東洋の哲理はこのように一見すると矛盾するような表現が多いです。
三つ目が簡易、簡単ということ、易は世界は簡単、シンプルであるということを表しているというものです。

易の解説書(『易経』岩波文庫など)を読むと、森羅万象が刻一刻と変化している(変易)なかで変化しない法則がある(不易)、そしてそれは陰陽という簡単な二つの記号で表すことができる(簡易)と書かれていて、変易と不易が矛盾しないことと簡易を含めた三つの関係性を説明しています。

変わることと変わらぬことが並存するという視点に立てば生殖(生物が子孫をつくる過程のこと)などはそのさいたるものです。
馬でいえば雌雄がいて親とは異なった遺伝子を持つ子供が生まれる、つまり生殖は変わることです。(なかにはアメーバの分裂など無性生殖で単一の親から子へ同じ遺伝形質が伝達されるものもありますが特殊な例なのでここではふれません。)
でもその変わることは無制限ではありません。
雄ロバと雌馬との間の雑種でラバというのがありますがラバ同士の繁殖は不可能といわれています。
伝説のキマイラは存在できない、存在してはいけないということなのでしょうか?
馬は馬、ロバはロバでなくてはならない、変わらない変わってはいけないということなのでしょうか。

鍼灸などの伝統文化なども同じことが言えるかもしれません。
中国、韓国、日本で鍼の形や診断、治療方法が異なります。
同じ日本でもいろんな流派がありそれぞれ異なっています、なかには小児はりなど刺さない鍼もあります。
時代や地域によって様々に変わる鍼、でも鍼としての共通性があり、変わらない鍼、変わってはいけない鍼。

変わるものと変わらぬものが並存する世界、易はそんな世界を表現しているのかもしれません。


by ふくだ (鍼灸師)
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2009年03月23日

すずらんのデザイン

“理由の見当たらない無責任なデザインはデザインではない”……

なんていう言葉が妙に心にひっかかる昨今、いや、まったくその通りだなと思います。

必ずそこには何かしらの理由というのは必然な訳で、作り手側はそうでなければいけないよ、と常々思っております。

そこに「意思が沸々と沸いているもの」。 コレが好きです。

なので全ての手掛けたのものはどれだけ昔にやったものだろうが「これは私が作りましたよ」と自慢出来るものでなければいけない。 ホントは。
後悔してはいけないぞと。 ホントは。

まぁ…結構自分もあるんですよね(笑)…無責任なものと書くと大げさかもしれないけれどもちょっと人に言いにくいというか。 これはダメですね。 自戒。

で、ちょっと話が変わりますが「理由のあるなしはわからんが、その意図とは別の責任感がはみでてしまったデザイン」。 これは好きです。


suzuran_1.jpg

写真のすずらんのグラフィックは大通の某所に唐突にカッティングされているんですが(市の融雪機械か何かの裏…?)、このカタチはもちろん、その唐突具合といい、カッティングの“ほつれた”感じといい、好きです。 他の場所にもあるのでしょうか……

意識下にあるのか?無意識なのか?重鎮のデザイナーさんが作ったような強さもあるし、おじさんがペペッて作った儚さを同時に味わえる、これを貼った理由あるなしに関わらず妙な説得力が出てしまっているのは僕の気のせいだろうか。
「そろそろ携帯でも持たせてやるか」という親の心境になってしまうのは僕の気のせいだろうか。  僕の気のせいである。

ちなみにすずらんの花言葉を調べてみると、いくつかある中のひとつに「意識しない美しさ」とあった。 
オチまで素晴らしすぎるんですけど。


by きくち (グラフィックデザイン)
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2009年03月02日

じいさんしゃべり

わしは翻訳をやっておる。
こにりょという名前じゃ。
だが、それはあだなじゃ。

これは、いわゆる「じいさんしゃべり」。と呼ばれているかどうか分からないけれども、小説や漫画を読んでいると、老人のセリフとしてこのような口調をときどき見かけると思う。

けれども、これまでぼくはこのような口調でしゃべる老人に実際に出会ったことがない。ぼくの祖父も、父も、こんな口調でしゃべりなどしなかった。わし、とか、〜じゃ、とか、〜のう、とか使う知り合いはいるけれども、それは方言であって、別に老人だから、というわけではなかった。いったいいつ、どのような経緯で、このような口調が老人のセリフのステレオタイプとして確立されたのだろうか。なぞだ。

翻訳する際には、この「じいさんしゃべり」は自分では使うまいとずっと思っていた。基本的に小説を訳しているときに、一人称をどうするか、どんな口調で会話させるか、いろいろと考えることがあるが、ともかくもステレオタイプには陥らないようにと模索していた。

けれども、すこし考えが変わった。とある児童向けのファンタジー本を読んでいたときにそう思ったのだが、なぜかこの芝居がかった「じいさんしゃべり」がしっくりときた。時と場合によるのだなとあらためて気づかされたわけだが、ステレオタイプも捨てたものじゃない。また、日本語の本だけではなく、同じようなファンタジー小説を外国語で読んでいると、登場人物の老人のセリフが、ぼくの頭の中で、知らないうちに「じいさんしゃべり」の日本語に変換されていることに気づき、自分でも驚いた。たとえそうした口調が人工的な構築物であったとしても、いつの間にか自分の中にしっかりと根付いていたのだ。こうしたステレオタイプの登場人物が「いかにも」な活躍をする小説には、ぴったりだと思った。ステレオタイプは、長い時を経ることによって構築されただけのことはある。

もちろん、登場人物のパーソナリティや内面、微細な心理を表現する場合にはこうした口調は向かない。けれども、その登場人物が「老人である」ということ、特に老人に期待されている役割を担った人物であるということ表現すればいい場合(ファンタジー小説では、多くの場合、若者を導く賢者として)、そうした場合には、この「じいさんしゃべり」は非常に有効である。一読するだけで、この人物がどのような立ち位置にあって、主人公たる若者とどう関わっているのか、把握できるからだ。

でも、どういう流れでこのしゃべり方が老人のステレオタイプとされるようになったのか、知っている方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。
posted by こにりょ at 00:58| Comment(2) | 仕事場のパンセ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月26日

議事録を書く

「議事録」を書く際の労苦については、一般に、ほとんど省みられることがない。

議事録とは、読んで字の如く、会議等の「議事」を「記録」した文書にすぎず、その目的は、発言を忠実に採録し、議論の筋道を精確に伝えることだ、と思われている。だから、議事録書きは機械的な作業であり、要するに「雑務」だ、というわけだ。

けれども本当にそうだろうか。

某社に籍を置くようになって一年数ヵ月、私は、少なくとも月に2本、多い時には月4本の議事録を書いてきた。定例会議、管理者会議、労使交渉、社内業務監査。ひたすらに書いた。そして辛酸を舐めた。

               ★★★

翻訳がある意味で身体的作業であるように、議事録書きもまた、身体的な作業だ。ただし、別種の筋肉を用いる作業である。

たとえば学術書の翻訳ならば筆者一人の論述を追えばよいだろう。論述は、翻訳者がページをめくり、目で言葉を追うときにだけ現れるはずである。

それに対して会議の席上では、通常、発言が止むことはない。絶えず誰かが、何かについて、何かを語っている。早口の発言者もいる。不明瞭な発音もある。ときには議論が枝分かれし、議場で二つ、三つの話題が並行して語られることすらある。

やがて議論が熱を帯びてくる。上司が部下を面罵する。部下が負けじとやり返す。同僚が横槍を入れる。野次が飛ぶ。滔々と弁じ、まくしたて、口角泡飛ばしたかと思えば、一歩引いて語尾を濁す。机が叩かれ、グラスが割れ、小鳥たちが飛び立つ。当初の議題など、もはや、誰も覚えていない。

それでも議事録書きは筆記を続けている。頭も上げず、黙々と。しかしながらここでは、彼が言葉を追っているのではない。言葉が彼を追い立てているのだ。

発せられた言葉を漏らさず筆写することは不可能である。発言の要点を瞬時に判別し、より画数の少ない書き方を(漢字よりもひらがなを、ひらがなよりもカタカナを、カタカナよりもアルファベットによる略号を、それすら間に合わなければ→や○や×といった記号を)選び取る。即興で新しい記号が生み出されることも稀ではない。

メモをとること自体がすでに、ほとんど身体的なレベルでの、反射的選択の積み重ねだ。

そして日が暮れる。会議が終る。待っているのは残されたメモを整理し、文章化するという作業である。締切は翌朝。ここでもやはりスピードがものを言う。

何を省き、何を補うのか。限られた時間ゆえに熟考は許されない。記載すべき発言と省略する発言を、ほとんど流れ作業のように、手際よく、より分けていく。居合わせた者たちが場の雰囲気から汲み取った結論(「それはまあ、そういうことで」云々)を、誰が読んでも理解できる文章へと整形していく。

選択の基準は重層的だ。社内での序列。人間関係。発言者の性格。あるいは会議の性質や、議事録が回覧される範囲も考慮に入れる。

               ★★★

こうした数々の選択を経て書かれた議事録は、結局のところ、会議そのものの記録であるとは言い難い。実感としてはむしろ逆だ。つまり、実際に開催された会議の方が、議事録によって事後的に、「会議」としてのまとまりを与えられていくのである。会議は、いわば、議事録の影となる。

あるいはこうも言えるだろう。議事録というスタイルが「会議」の格式を保証するのだ、と。突飛な例と思われるかもしれないが、たとえば十七世紀のフランスでは、発足したばかりの絵画・彫刻アカデミーが、定例会議の議事録を刊行していた。アカデミーが必要としていたものは、単なる会合や寄り合いではなく、議事録という体裁に裏打ちされた格調高い「会議」だったのであり、絵画や彫刻を、そうした「会議」にふさわしい議題に高めていくことだったのである。

もちろん、私自身が携わっている議事録書きは、そんな大袈裟なものではない。だが、それでもやはりいつも、単なる会議の記録とは別のものができてしまう。議事録は嘘をつく。注意が必要である。

               written by IMA
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2009年01月19日

愚直、について

はじめまして。
美術館の学芸員という仕事をしているHといいます。
仕事の内容はいろいろですが、
美術展をつくる仕事にいちばん手間ひまをかけています。
今日は仕事について最近思ったことを書いてみます。

この頃気をつけないといけないな、と思うのは、
「仕事をする」ということ自体を目的にしてしまうこと。
この職業に就いて3年ちょっと経ち、仕事をいかに「効率よく」こなすか、
ということを考えられる余裕が出てきたけれど
(考えるだけで必ずしもうまくいってはいませんが)、
そればかりを優先してしまうと、
その結果は「痩せた」(堀さんのお言葉を拝借)ものになってしまう、
と感じることが何度かあったからです。

もちろん仕事は効率よくスマートに進めることに越したことはないのだけど、
私たちが相手にするのは美術作品だから、
誠実に向き合って、作品を生かすために心を尽くさなくてはならない。
そうでないと、そもそもこの仕事の意味がない。
だけど、ひたすら時間に追われて、「忙」という漢字のとおり、
心を亡くしかけている、と思うことがないわけではないのです。

このあいだ、ある作家と話をする機会がありました。
東京で活躍するいわゆる新進気鋭の画家で、
札幌で彼をゲストに迎えたトークイベントがあり、
そこで聞き手役をつとめることになったのでした。
彼は一時期同じ学校に通っていた旧知の友人で、
同じ美術の世界で仕事をしていることを嬉しく思っていたし、
彼の作品も好きで、どこかで展示されるときにはできる限り見に出かけていたけれど、
いつもタイミングが合わず、本人とゆっくり話をする機会を持てずにいました。

思いがけない役回りに期待半分、不安半分。
あらためて彼の書いた自作論を読んでみると、けっこう難解です。
果たして私に彼の話の相手がつとまるのかしら...とすっかり弱気に。
弱気のまま、当日、打ち合わせにやってきた彼を迎えました。
とりあえずは形式上の諸々の確認をし、
いざ、彼の作品について聞いてみたかったことをぽつぽつと尋ねてみます。
彼はていねいに言葉を選びながら答えてくれました。
そうすると、その答えから、また次の問いが生まれます。
話していくうちに、じつは彼もそれなりに緊張していることがわかり、
そうすると私は逆になんだか安心してしまい、
気持ちがほどけて、さらにいろいろ話ができたのでした。
ひとしきり話したあと、これなら本番も話せるね、と笑いました。

さて、本番。
聴衆を前にして、もちろん2人で話したときよりはフォーマルになったけれど、
私は尋ねたいことを尋ねることができて、彼は誠実に話してくれて、
もちろん聞いていた方たちすべてにではないだろうけれど、
何人かには彼の言葉がとても響いたように思えました。
私の個人的な収穫は、私が彼の作品の何を好きなのかがわかったことでした。
(彼の名前を伏せているので読む方には伝わらないと思うけれど、自分のために覚え書き)
彼の絵が「何かについて」の批評のような狭量なものではなくて、
その前に立ったときにすぐさまどこかへ連れていってくれるだけの力をもっているところ。
絵にできることを信じるまっすぐな力強さと、目に美しいものを肯定するおおらかさ、
それが独りよがりのものにならないように抑制する冷静な知性。

たぶん大切にすべきなのは、
わからないのに、わかると言わないこと、
どうしてと尋ねること、
それらしい言葉で取り繕うのではなくて、
拙くても自分の思うことにしっくり合う言葉を選ぶこと。
こちらがそういう心持ちでのぞむなら、相手も応えてくれるような気がするのです。
見栄や、虚勢や、臆病の殻で身を守ると、
自分の中味を見せないから恥ずかしい思いをせずに済む代わりに、
相手から発せられ、自分のなかに入って来るものは、たぶん何もない。
なんだか少し大げさになったけれど、
今回のことを通して、何かと誠実に向き合うということは、
そういう愚直さを持つということなのではないか、と思ったのです。

それで最初の話に戻ると、何かを「効率よく」成し遂げようとするとき、
切り捨てられているのがその愚直さだと思うのです。
たとえば作品についての言葉を書くことが仕事のひとつである私は、
〆切に追われて、行き詰まってしまったとき、
ついそれらしい言葉でそれらしくまとめてしまいたい誘惑にかられます。
でも、自分の選んだ言葉が本当に作品のことを言い当てるのにぴったりした言葉なのか、
自分が伝えたかったことは本当にこのなかにすべて書き切れているのか、
などなど、悩んだり、迷ったり、停滞したり、思いついたり、
失敗したり、うまくいって欲が出たりという、
いつ終わるとも知れない自分内問答に時間を費やさなければ、
その文章は薄っぺらい、前にどこかで読んだようなものにしかならないのです。
でも、心を尽くしたものであれば、読者にとってはどうあれ(いや、重要ですが)、
少なくとも自分にとっては真実の、納得のいくものになる。
なんでもかんでもそうやって愚直にやっていたのでは体がいくつあっても足りないけれど、
最低限、作品に直接関わる仕事については、「効率」とは無縁のそういうやり方を大事にしなくては、とあらためて思いました。

なんだか〆切間近の原稿を抱えている自分に自分でプレッシャーをかけてしまいましたが、
願わくば、愚かしいまでに正直な精神を内に抱えつつ、外から見た仕事ぶりは至極スマート、
という理想の姿にいつかたどり着きたい、と思うのでした。

               written by H
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2008年12月08日

マルボロのパッケージ

グラフィックデザイナーの菊地です。シナプス(初)です。
よろしくお願いします。
………で、早速というか折角というか、身の回りにある個人的に気になってるデザインとかポロポロ書きますね。

先ずマルボロのパッケージなんですけど僕は愛煙家歴10年弱で、マルボロとはかれこれ8年位つきあってます。

マルボロに出会うまでは某メンソールを好んでいました。で、昔々、東京へグラフィックデザイナーの松本 弦人氏の事務所へ面接に行った時に、彼が吸っていたのがマルボロだったんです。

          mal.jpg

彼自身が滅茶苦茶かっこよかったのはもちろん、その赤い屋根の箱から煙草を取り出す仕草や、机にポンと置かれたパッケージの佇まいとか、全てが恰好よかったわけです。
若かりし僕は「デザイナーはマルボロなんだ!」なんて思ったのかもしれません。そんなこんなで彼にあやかったのがきっかけとなりました。

まぁそんな出会いを抜きにしてもこのパッケージは好きです。
通常シンメトリーのデザインは男性的に見えるはずなんですが、頭文字の「M」を若干大きくしてシンメトリーを崩しているせいなのか、色の配置のせいなのか、繊細な印象も受けます。
つまりはこの小さな箱に“大胆かつ繊細”がコンパクトに実践されています。そこがいい。

で、僕なりに調べたところ、なんとこの赤いマルボロは当初「女性向け」として販売戦略をたてていたらしくて(つまりこの赤い屋根は女性の口元を表しているそうなんです!凄いっ)、当時はさっぱり売れず、途中でターゲットを180度変更、カウボーイなどを広告に用い“アメリカのスタンダードな煙草”というイメージにシフトチェンジした事が功を奏したそうです。

個人的に「好きかも〜」と思える煙草のパッケージには「憧れ」が凝縮しているような佇まいがあるんですよね。子供が思う大人への「憧れ」、日本人が思う外国への「憧れ」…。
もちろんパッケージではそんな訴求は一切していませんが、その「憧れ力」が強ければ強いほど「良いパッケージ」に見えるのは気のせいでしょうか。

現在日本では、煙草のパッケージの三分の一の面積が警告文になっていますが、それさえも想定していたような、どんなシチュエーションにも視界に飛び込んでくるこの強い赤はやはり唯一無二、もう暫く付き合いが長くなりそうではあります………。
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2008年11月24日

いっぽいっぽ

私は11月の頭に札幌で個展を開いてたんです。
いい展示でしたが、一個人としての自分を見直す大きなキッカケにもなりました。
コアになる『絵描き』として、自分で認め歩む。よく考えたら、自分で自分を知るって難しくない?
ひとつカードが開けば、あれやこれパタパタその他も開いて繋がっていくので
頭が付いていかず少々疲れてます。人として未熟なのは分かりきっていても、どこがどう未熟なのか、
まるで赤点だらけのテストが7教科全部帰ってきたような衝撃。
中々起きられないベッドやコタツのなかで一週間は死人のようでした。
自分を知ることは、こんなにも疲れることだとは・・・。
過去にもあっただろうに、しんどいことはすぐ忘れるんだよなぁー

絵を観てもらうために、親しんでもらうために
早い話、人になめられていたんじゃやってられないのです。
女だから?20代だから?若手だから?そもそも私がアホな佐藤さんだから?
あーもーそういうの一切ヤなんだよーぅ!馬鹿にされるような作品はつくってないぞーっ!!

絵描きと名乗ること。作品を見てもらうこと。
自分の場合、世界はそこから始まるんですが
支えるのもだめにするのも、私の心しだい。分かってるんですけどね。
うまくやれりゃあ苦労しないんですよね。

世界が広がれば、それだけいいことも悪いこともある。
けど馬鹿な私は、瞬時にまだ見分けが付かなくてたまに色々嫌になったりするんです。
絵を描くのは嫌いにならないのが救い。
描いていれば、救われますし、先へ伸びて行ける。
親切な人が諭してくれても「上から目線でモノいいやがって」なんて内心毒づいてるガキっぽいところは治らず
また親切に寄りかかりすぎて、皆をガッカリさせたりそんなことばかり。
結局痛い目に遭わなけりゃわかんない。
人が悪いんじゃない。
受け止める自分次第なんだよと毎度毎度覚えては忘れるの繰り返しです。
いちいち、出していかなければならない「答え」。
ひとつでも多くここから見つけ出したい。

なので、最近制作のためこもるのがいい感じ。自己にダイビングしていくのと似てる気がする。
面の堀さんが個展で「こもるのは宗教的にもいいことなんだよ。チャンネルを開くいい行動なんだって」と教えてくれた。
ちなみに私自身は無宗教です。お寺とか仏像とか、それから聖書なんかも好きでよみますが、どこどこの神様が一番などは取り立てて考えてません。
ただ神様は、すくなくとも「わたしのカミサマ」はいる気がしてならないんですね。
多少ブスでも…すごいブスでもよく笑い、
泣いて喋って、人をハッピーにさせる絵を生んで、同じ嘘でも人を傷つけない程度のウソをつくにとどめて
よく食べ、ある程度人やものには優しくしておけば大体OKで、陰口たたかず直接いえる悪口を腰据えていえるぐらいの度胸で暮らし
いつも自分と逃げずに見合っていれば (絵を描いていれば)
カミサマそうそう見放したりしないんじゃないかな。
運命とも言い換えられるもかもしれないし多分きっとそうだ。

年のわりに子ども臭く、一般常識もしらない27歳11ヶ月。
身体は年をとっていきます。しかし幸いなのは、心も技術も年をとらないことかな。
「もう若くないから」の言葉を言う人間は、その言葉を吐く口から老いていくんだろうと思う。
あたしの好きな人たちは、年齢の話で誤魔化したりしません。
逆に、若いからバカにされるのか?若いから色々仕方がないのかというのもきっと違って
年齢で測ろうとするのこそかっこ悪いんであって
「ガキだろうがババアだろうが、てめーはてめーだろーが!」
そういう声が天から聞こえるので耳が痛い。

私は果たしてどうかと問われたら、絶対そうならないぞと誓うのが大切な自分への礼儀ですよね。
腹のそこじゃそう思ってないくせに、あんまりへりくだって自分を軽くするのはあんまりいいことじゃない。
だって当然未来があって、そのために絵を描き続けていかなくてはならないからです。
外から来るうまい話より、自分の足で大きな一歩を歩みたい。
ある日突然降ってくる「いい話」に舞い上がり、それに食いついては落胆するのはそろそろやめたいな・・・。

人は成長できる。これほど救われる話はないと思っています。
絵も素敵になっていけるだけの余白が沢山あることは、そのまんま希望に繋がります。
だから生きていてなんだかんだで楽しかったりします。
なるべく健康的に長生きしたいです。
きっとすこぶる手ごわく、実は可愛い絵描きさんに。
たとえ明日死んじゃっても、ずっと歩んでいけるタフな作品をつくりたいです。

**********
   今週登場してくれたのは、絵描きの佐藤久美子さんでした。
   作品未見の方はぜひ、佐藤さんのブログを御覧ください! (堀)
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2008年11月10日

トランペットに目覚める

   今回は「面」に草創期から参加してくださっているトランペット奏者、
   古畑亜紀さんのWeb日記から、
   管理人が感銘を受けた記事を転載させていただきます。

*******************************

トランペットに目覚めたらしくて、わたしは幸せである☆

なぜか調子もよいのだった…。


心は楽器なんだとつくづく思う。


私はピカピカ&りんりんと吹きたいのだった。
芸には柔軟性やバリエーションも必要。
でも今日のテーマは単純に『りんりんと』です☆


理想に燃える(笑)。


現実との折衷案であっても、そこに大きな夢がなくては、
音楽が商売道具のみになってしまえば、ただ心が悲しいじゃないか。
折衷案であれば適当な取り組みでよいとゆうのも違う。
その案にはその案を、ベストな形にしあげるための技術があるからだ。
私はその技術を磨くのも好きである。


神の前ではすべてが平等、とゆう発想が西洋クラシックのルーツ。わたしは他のなにかを見下す感じがあたりまえな、クラシック系の輩はかんじんなルーツが理解できていないとみている。
よって、それが知的とも高尚とも芸術的とも実は思わない。
見下すためのクラシックじゃない。

そうゆうの、他のジャンルにもいるけど。
言い過ぎてすみませんが。


私がクラシックを通して学んだのは、平等とゆう精神の大切さです。


音楽のチケットをかうひとは、ものを買っているんじゃなくて、夢を求めていると思う。私はそうだな。


どんなものにも最高の形があると私は思う。。

『まだましである、ではなくいつも最高を。』


ポンペルガー先生に言われた言葉です!
なんかりんりん気分まんぱいだ。
朝にかく日記でした☆

*********************************

   以上、10月10日の日記から、
   ご本人の承諾を得て転載させていただきました。
   NHKの番組ではないですが、プロフェッショナルって、
   こんな風に何度も初心に返って「目覚める」ことのできる人
   のことを言うのかもしれない、と思いました。
   きっと何の仕事でも通じることですね。

   ⇒ 古畑さんの公式ブログはこちら
      Web日記はこちら
      ソロアルバムの情報は上記公式ブログの他、こちらにもあります。
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2008年11月03日

腰痛対策

時折、翻訳業務を行なっています、こにりょ、と申します。翻訳は、一人でもくもくと行なう仕事なので、どうすれば心身ともに快適に仕事ができるか、いつもいろいろと考えています。とはいえ、まだ自分のスタイルは見つかりません。

大きな仕事が入ると、一日の多くの時間を座って過ごすということが続きますので、結構腰に負担がかかります。それは座り仕事を行なう人にとって共通の悩みかと思いますが、締め切り前にぎっくり腰にでもなったら、と時々不安に思うこともあります。

『ダ・ヴィンチ・コード』の作者ダン・ブラウンのインタビューで読んだのですが、彼は一時間おきにストレッチをしているそうで、さすがは人気作家、体調のことには気を使っているなと感心しました。

さて、私もそうしようかと思ったのですが、一時間経ったのをすぐ忘れてしまいます。で、CDを一枚かけて音楽が終わったらストレッチ、そしてまた別のCDを、というリズムでやろうと思ったのですが、音楽に気をとられてどうにも集中力が減退してしまいました。好みの音楽をかけるのがよくないのか。逆効果です。

聞いた話では、といってもどこで聞いたのかすっかり忘れてしまいましたが、「翻訳にはバッハがいい」というのを小耳にはさんだので、しばらくバッハのオルガン曲を流していたことがあります。うねうねした流れが脳みその隙間にはまり込むようで、悪くはありませんでした。しかし、しばらくかけているうちに、すごく気に入った曲ができたりして、それが流れると注意がそっちにいったりして、また、もとの木阿弥でした。

そのうち、なぜ翻訳にバッハがいいのか、バッハじゃなくて、ベートーベンならだめとでもいうのか、クラシックだけではなくて、ロックなら、ジャズなら、といった疑問がいろいろと沸いてきて、いろいろ試しているうちに、いつのまにかストレッチのことをすっかり忘れてしまうし、さらには仕事どころじゃなくなってしまいました。

このところはあまり時間にこだわらずに、気が向いたときにストレッチしています。調子は上々です。
posted by こにりょ at 00:33| 仕事場のパンセ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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