2010年02月08日

神事と品格の曖昧な関係。

他のところにも書いたのですが、
やっぱり気になる朝青龍の一件。

神事なんだから横綱には品格を、
という言い方に接しますが、
どうも、神事ってことを狭く、また道徳的に(人事として?)考えすぎてるような気がします。

立ち会いからつかの間、
土俵から立ちあがる、荒ぶる神の依り代(憑依体)となり、
さて、どちらがどちらを鎮めるか――

私個人は、そんなふうに、相撲と神事との重なりを見ています。

いや、依り代(シャーマン)じゃあない、
祭司、神官(プリースト)であるからして、
神を前にしての礼節が求められるのだ、
という声もありましょうけれど。

歴史的なことは、私も少し勉強しなければ、
はっきりしたことは言えないのですが、
おそらくこの種の問題に関しては、文献的に実証できることは限られている。

両面が混在してるんじゃないかと思うし、
その混在がまた、面白いんじゃないかと思うんです。

     ★★★

破天荒な行動をする力士がいなくなった、
という話をどこかで読んだのは、ずいぶん前のこと。
その分、ハングリー精神も見られなくなってきた、という話でした。

外国人力士の勢いが増してきたのは、
そうしたことも理由の一つだったはず。

ある面では(ある面では、ですよ)、朝青龍は今どき少ない、
力士らしい力士だったのかもしれない、と。

問題は、場合によっては土俵の外でも荒ぶる神みたいな状態になりかねない力士という存在を、
暴走しないようにぎりぎりのところで制御できる人たちがちゃんといるかどうかじゃないでしょうか。
(お祭りの時だって、血気盛んな若者や暴れ馬を年長者が「どうどうどう」、とやる)

そういうネットワークの中でたち現れる「品格」を言うのなら、まあわかるけど、
他から切り離された個人の属性としてそれを横綱に求めるのは、
「無茶!」という気がします。

現代の日本でなお、ちょんまげを結っている超・少数派集団として、
過度に「おさむらい」的な儒教道徳を求められるのは、
ちょっと気の毒です。

もっともっと広いスケールで伝統というものを考えたい。

江戸時代の、しかもほんの一部の武士的な価値観を日本の伝統のすべてとは考えたくないです。
先ほど憑依とかシャーマンという言葉を使ったのは、
そこに異国とのつながり――例えばモンゴルにも共通するもの――があるからです。

     ★★★

力士の教育に全力を、って言うけれど、
おさむらいと神官ばかりが土俵の上にいて、
肝心の神様がいないような事態になるのは寂しい。

神様信じてるの?とか、そういう問題ではなくて。

神事というのはさしあたり、
人知や人力では制御しきれないものに対して、
そこに住む人々がどういう姿勢をとるか、
ということを表現するものだと思うので。

たとえ信じてなくてもおろそかにはしたくない、と思うのです。


      堀マサヒコ


posted by 面 at 00:43| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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