2009年05月11日

ことば

テレビを見ていたら、名古屋市長の河村氏が名古屋弁の復権を目指しているという。
言葉は文化を構成する重要な要素で、方言に誇りを持つことは地元意識の向上にもつながるというのがその根拠らしい。そのおり、「織田信長も名古屋弁をしゃべっていたんだぎゃや」と言っていたのが印象的だった。

そこで最近話題のレッドクリフの一場面を考えてみた。諸葛亮が孫権を説得するシーンで、ふたりの間ではどのような言葉が交わされたのだろうか。

諸葛亮は長江より北の出身で、長江の南に育った孫権と会話が成立したのであろうか。現在でも中国各地には方言があって、お互い地元言葉で話したら通じない。そこでいまは普通語(標準語)を設けてテレビ・ラジオで流したり、学校で教えたりしているので方言と普通語のバイリンガルが増えている。

しかしいまから1800年前はどうだったのだろう。秦の始皇帝は文字は統一したが、言語は統一しなかった。漢字は表意文字であるので、書けば意味がわかる。しかし言語は統一されずに今日まで方言として残っている。

では、諸葛亮はどうやって孫権と交渉したのか。書面で遣り取りしたのだろうか。『三国志』のなかでは諸葛亮が孫権に語りかけ、孫権もそれに答えたことになっている。ということは、二人は共通する言葉を利用していたと思われる。

5世紀末の事例だが、北方の遊牧民族鮮卑が建てた北魏では、鮮卑語と漢語という漢語の方言以上の言葉の壁を抱えていた。それをどうやって克服したかというと、はじめは両言語に通じた漢民族を通訳として使っていたが、6代目の孝文帝のとき、朝廷で使用する言語は「正音」(当時の河南方言)にすると定め、共通語を設定することで言葉の壁を乗り越えた。秦漢の400年のうちに朝廷で使用する共通語が成立したとしても不思議ではない。その共通語で官僚予備軍は大学の講義(儒教の経典をはじめとする古典)を聴き、音読したであろう。

諸葛亮も孫権もいずれも後漢の官僚に連なる家の出身者であることから、なんらかのかたちで共通語をマスターしていたであろう。よってレッドクリフのあの場面で二人が現在の普通語で会話していたのはある意味正解ということになる。そこに当時の中原漢語の発音を求めるのは無理というものだ。

松下憲一 (東洋史)
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