2009年04月20日

あとがきを読む

推理小説、ミステリィ小説の「あとがき」「解説」だけを100冊分読もうと思い立ち、まなじりをけっして図書館に向かう。本篇は読まない、あくまでも「あとがき」「解説」だけだ、と悲壮な決意で向かう。

まず、簡単なルールを定める。
一、50音順に、手当たり次第、読むこと。
一、本編はもちろん、あらすじ、作者略歴等も読まないこと。
一、手にとった本は棚に戻さず読むこと(ただし推理小説、ミステリィ小説でないと判明した場合は除く)。

予め結果を述べておくと、100冊分読了することは、できなかった。なぜか。

★★★


苦痛は最初、ある種の「もどかしさ」として、あらわれる。作品の性質上、具体的な記述は差し控えるのだと、解説者たちが口を噤む場面である。
「未読の読者の興をそぐことになるので、具体的な作品名は挙げられない」(歌野晶午『さらわれたい女』、解説:法月綸太郎)
「解説から先に読んでいる読者のために具体的な指摘は出来ない」(二階堂黎人『ユリ迷宮』、解説:千街晶之)
要するに、「未読の読者の興味をそがないよう、なるべく遠巻きにして」(綾辻行人『黒猫館の殺人』、解説:法月綸太郎)語らねばならないのである。

遠巻きに語ろうとするためか、解説者たちの前置きは、長くなる。
「以上、長々とした前置きはこれくらいにして、本論に入る」(東野圭吾『放課後』、解説:黒川博行)
「さて、洒落にならないくらい前置きが長くなってしまったが」(森博嗣『冷たい密室と博士たち』、文庫版解説:西澤保彦)
「さて、前置きが長くなった。そろそろ本題に入らねばならない。」(法月綸太郎『雪密室』、解説:三橋暁)
まったく、もどかしいのだ。

とはいえ逆に、解説が具体的すぎる場合にも、問題が残る。
「以下、事件の真相に触れている箇所があるので、本編読了後にお読みください」(京極夏彦『魍魎の匣』、解説:山口雅也)
「本作を未読の方はご注意ください」(岡嶋二人『99%の誘拐』、解説:西澤保彦)
「以下、当然、内容に触れることになる。作品から先にお読みいただきたい」(宮部みゆき『我らが隣人の犯罪』、解説:北村薫)
せっかくの忠告ではあるが、ルールに従う以上、本を棚に戻すことはできない。かといって、今すぐに、本編を読むこともできない。うしろめたい気持ちを抱えつつ、ページをめくるしかないのである。

ところで、この「うしろめたい」気持ちは、一体何なのか。作者と解説者に対して非礼をはたらいているという、一種のやましさだろうか。30作目あたりまではそう思っていた。けれどもやがて、そうではないと、感じ始める。ここでのうしろめたさは、道義上のものではなく、もっと不気味で、不吉で、まがまがしい種類のものではないか、と。

どうして不吉で、まがまがしい印象を受けるのか。うまく説明することはできない(できていれば、それほど不吉ではないだろう)。

作品世界と外部世界とをつなぐ、いわば緩衝地帯としての、「あとがき」「解説」。そこは既に小説作品そのものではないが、確かに作品と同じ本の中で、となりあっている領域だ。その親密さを無視し、緩衝地帯だけに上がり込みむこと。作品世界を遠巻きに、出口の側からだけ覗こうとすること。それが、どういうわけか、不気味な行為のように感じられたのである。当初の意気込みは萎え、結果的に、100冊分を読むことはできなかった。

★★★


次は学術書の「あとがき」を読もう、と懲りずに思い立ち、図書館を後にする。

written by IMA
posted by こにりょ at 00:00| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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