そんなわけで、またもや管理人の登場となりました。
今日は先回の佐藤さんの記事でも神さまのことが話題になっていたこともあり、
広い意味での神イメージ、宗教学では神表象、などと言われるものについて、
少し書いてみます。
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様々な宗教において、人々が広い意味での神をどのように思い描いているか。
この問いに関して、次のような対比が用いられることがあります。
―― 神が何らかの姿・形のもとに思い描かれる場合と、
そうではない場合。
たとえば脇本平也氏は『宗教学入門』(講談社学術文庫)の中で、
この対比を「有相の神」と「無相の神」という言葉で紹介しています。
前者はさほど説明を要さないでしょう。
「植物や動物の姿を有する神とか、擬人的に人間の相をそなえた神」などがこれにあたります(同書、130頁)。
他方、後者は「色なく形なく、おおよそ人間の考えうる姿や形態を超えた存在として捉えられる神」(同)、ということになります。
脇本氏はここで、
有相の神/無相の神という対比は多神教/一神教という対比とゆるやかに対応する、と解説しておられます。
氏が「概して言えば」と強調しているとおり、
大枠の議論としては、確かにそのような対応関係があると思います。
有相の神の典型として想起されるのは、
多神教の典型でもあるヒンドゥーの神々であり、
あるいは古代のギリシア、ローマ、エジプトなどの神話の中でドラマを演じる多種多様な神々でしょう。
他方、
ユダヤ教、キリスト教、イスラームの神(基本的に同一のものを指します)は、
人間の知性や想像力のフレームに収まりきらない存在だとされますので、
その「無相」性は絶えず強調されることになります。
しかしながら、私たちにとって身近な(はず)の日本のカミサマは、というと、
八百万の神と言われるように多神教の典型と見えながらも、
「有相の神」と言えるかどうかが、そう簡単には決しがたい性格を持っています。
なるほど、年賀状(用意しなきゃ!)の絵柄でもお馴染みの七福神などは、
まさに「多にして有相」の神の典型のようにも見えます。
いささか唐突ですが、「千と千尋の神隠し」に登場する神さまの表現なども、
その延長線上にあるように思います。
しかし、歴史的な過去を辿れば、
もともと日本におけるカミは、それ自体は姿・形を持たず、
ただ山川草木など有形のものに「宿る」とか「よりつく」というふうに考えられていたようです。
多種多様な神像のたぐいが作られるようになったのは、
外来の神像文化・仏像文化の影響によるものと言われています。
七福神の神々も、それぞれがインドや中国の神々をもとに造形されたものであり、少なくともルーツにおいては「外来の」神だと言われています。
このような事情から、日本の神は「多にして無相」の神である、
というふうに議論を持っていく人もいます。
しかし、これもやはり、そのように言い切ってしまうのは少し乱暴でしょう。
有形のものに無形のカミが宿る、という古来の考え方は、
外来の神像文化・仏像文化を受け入れていく過程で失われたわけではなく、
むしろその受容の素地として、多少とも生き続けたはずです。
根底的には無相性を前提としつつ、
あらゆる姿・形を「仮のもの」として受け入れるというような、
いささか入り組んだタイプの神表象の伝統が、
日本にはあるのかもしれません(もちろん、それが日本に独自だとは限りません)。
いまだぼんやりとした思いつきのレベルですが、
このあたりの問題、少しずつ突き詰めていきたいと思っています。
※ 今回の記事から、コメントを受け付けます。
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その点はご容赦ください。
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