2010年02月22日

しばらくお休みします。

当サイトの更新を、しばらくお休みさせていただきます。

その間、各メンバーのブログ等を、どうぞ宜しくお願いいたします。

     
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2010年02月15日

太陽を凝視した男。

こにりょさんの太陽について、からシナプス接続。

まさに、「見てはいけない」太陽を、
過剰なまでの科学的探究心から肉眼で見つめてしまい、
失明しかけたという逸話を持つ人がいます。

その人の名は、グスタフ・フェヒナー(G.Fechner;1801-87)。


gustav-theodor-fechner.jpg


実験科学としての心理学の誕生に大きく貢献したドイツの学者の一人として、
心理学の教科書などでも紹介されています。

そうした文脈で必ず言及されるのは、
彼が自ら「精神物理学」と呼んだ方法論で、
これはつまり、
物理的刺激と、それに対する感覚の変化を調べることによって
心と身体の対応関係を数量的に確かめる、というものです。
(サトウタツヤ・高砂美樹『流れを読む心理学史』有斐閣、20〜24頁などを参照。これ、良書と思います)

太陽を凝視して、というエピソードは、
そうした方法論を確立するよりもかなり前のことですが、
それもまた、
光と残像の関係を確かめるための「実験」だったそうで、
後に発展する方法論の萌芽でもあったのでしょう。

     ★★★

私が好きで、長いこと読みつづけているアメリカの哲学者、
ウィリアム・ジェイムズの著作のいくつかに、
このフェヒナーに対する賛辞(しかも、かなり興奮を帯びた)が見られます。

ジェイムズが感激しているのは、
フェヒナーの実験家としての側面よりもむしろ、
彼の独特の宇宙観であるようです。

その特徴の一端は、
フェヒナーが心と相即するところの「身体」というものを、
極めて多様なものとして、また極めて広い範囲に見出そうとしている点に認められます。

たとえば、植物。
あるいは、地球そのもの。

これらにフェヒナーは、確かに「身体」を見ています。

そこに身体を認めるということは、
同時に、そこに精神的な営み(ジェイムズの言い方では「内的生活」)を認めるということでもあります。

ジェイムズが注目を促すところのフェヒナーの思想は、
日本に育った私には、
何となく「依り代」的な考え方とも部分的に重なるような気がして、
共感できる面があります。

しかも、そのような着想を、単なるフィーリングによってではなく、
一定のロジックを働かせながら紡ぎだしているところに、
興味をそそられます。

しかし、この面でのフェヒナーの著作は、
死後生を論じた小著を除いて、日本語訳がほとんどありません。

私はドイツ語が×××なので英訳に期待したのですが、
これもほんの一部の著作(というか、断片)にとどまっています。

しばらくは辞書と首っ引きの状態でも、
ドイツ語に噛り付くしかないようです。

     by 堀マサヒコ

posted by 面 at 05:52| Comment(0) | シナプス接続 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月08日

神事と品格の曖昧な関係。

他のところにも書いたのですが、
やっぱり気になる朝青龍の一件。

神事なんだから横綱には品格を、
という言い方に接しますが、
どうも、神事ってことを狭く、また道徳的に(人事として?)考えすぎてるような気がします。

立ち会いからつかの間、
土俵から立ちあがる、荒ぶる神の依り代(憑依体)となり、
さて、どちらがどちらを鎮めるか――

私個人は、そんなふうに、相撲と神事との重なりを見ています。

いや、依り代(シャーマン)じゃあない、
祭司、神官(プリースト)であるからして、
神を前にしての礼節が求められるのだ、
という声もありましょうけれど。

歴史的なことは、私も少し勉強しなければ、
はっきりしたことは言えないのですが、
おそらくこの種の問題に関しては、文献的に実証できることは限られている。

両面が混在してるんじゃないかと思うし、
その混在がまた、面白いんじゃないかと思うんです。

     ★★★

破天荒な行動をする力士がいなくなった、
という話をどこかで読んだのは、ずいぶん前のこと。
その分、ハングリー精神も見られなくなってきた、という話でした。

外国人力士の勢いが増してきたのは、
そうしたことも理由の一つだったはず。

ある面では(ある面では、ですよ)、朝青龍は今どき少ない、
力士らしい力士だったのかもしれない、と。

問題は、場合によっては土俵の外でも荒ぶる神みたいな状態になりかねない力士という存在を、
暴走しないようにぎりぎりのところで制御できる人たちがちゃんといるかどうかじゃないでしょうか。
(お祭りの時だって、血気盛んな若者や暴れ馬を年長者が「どうどうどう」、とやる)

そういうネットワークの中でたち現れる「品格」を言うのなら、まあわかるけど、
他から切り離された個人の属性としてそれを横綱に求めるのは、
「無茶!」という気がします。

現代の日本でなお、ちょんまげを結っている超・少数派集団として、
過度に「おさむらい」的な儒教道徳を求められるのは、
ちょっと気の毒です。

もっともっと広いスケールで伝統というものを考えたい。

江戸時代の、しかもほんの一部の武士的な価値観を日本の伝統のすべてとは考えたくないです。
先ほど憑依とかシャーマンという言葉を使ったのは、
そこに異国とのつながり――例えばモンゴルにも共通するもの――があるからです。

     ★★★

力士の教育に全力を、って言うけれど、
おさむらいと神官ばかりが土俵の上にいて、
肝心の神様がいないような事態になるのは寂しい。

神様信じてるの?とか、そういう問題ではなくて。

神事というのはさしあたり、
人知や人力では制御しきれないものに対して、
そこに住む人々がどういう姿勢をとるか、
ということを表現するものだと思うので。

たとえ信じてなくてもおろそかにはしたくない、と思うのです。


      堀マサヒコ


posted by 面 at 00:43| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

信じてないからこそ。

「来世でな!」

と手を振り、去りゆく男(千原ジュニア)。

ずいぶん前に見たドラマのラストシーンですが、
なんだか妙に、心に残っています。

     ★★★

「深く潜れ ― 八犬伝2001」。
検索してみたら、NHKのサイトが残っていました。
http://www.nhk.or.jp/drama/archives/dd/index.html

前世を知るための無人島ツアーという、
なんとも怪しげな旅に集まってしまった人々の物語。
そうだったけか。 細部は忘れてしまったけれど、
確かになかなか面白いドラマでした。

数年前のNHK朝ドラ「芋たこなんきん」でも、
主人公(藤山直美)が死んでしまった亭主(國村隼)の写真に向かい、
「来世でも私を見つけてね」と呼びかけるシーンがありました。

が、こちらは原作の田辺聖子が江原ファンなのを知っていたので、
正直、すっごく白けてしまった。
藤山直美も國村隼も大好きなのに。

     ★★★

来世で、という言葉が心に響くのは、
反面、来世なんか無いだろうなあ、と思っているからこそじゃないかと。

もう二度と会えないという思いがズキズキと胸に迫っているからこそ、
来世で会おうよ、と笑って別れることにも一定の重みがあるわけで。

芸能人カップルが「パワースポット」セドナへの旅に出かけ、
歌舞伎役者が意中のひとに「来世も再来世も一緒に」と甘い言葉(?)をささやく、
あちこちスピリチュアルな今日この頃。

来世があるらしいよ、てな話がアタリマエになってしまったら、
これまで人類が色んな形で来世やあの世を語ってきたことの意味が、
すっかり消えてしまうような気がして。

あまのじゃくですかね。

     by 堀マサヒコ

posted by 面 at 01:43| Comment(2) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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