2009年05月25日

ほんとに恐いのは

新型インフルエンザの感染者を出した(という言い方も何だか変な感じだけれど)学校の校長が、謝罪。
そうしなければならない世の中の雰囲気に、ちょっとゾッとした。

今世紀、人類最大の敵となり続けるだろうと言われる、各種ウィルス。

今からそんな社会的圧力を生むような状況で、
この国は大丈夫だろうか。
なーんてね。いや、ほんと。

*****

リレー形式で運営している本ブログ。
ただいま三周目に向けて、準備中です。

     by 管理人Aこと、堀
posted by 面 at 01:36| Comment(0) | intermezzo | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月18日

シナプス接続 その3

管理人の堀です。

リレー式で運営しているこのブログ。
まだお誘いできていないメンバーもいるのですが、
とりあえず二周目を終えました。

今回は、全体に言葉やコミュニケーションをテーマにしたエッセイが多かったように思います。

すべての記事をフォローすることはできませんが、
ここではそのようなテーマに沿って、少し考えたことを振り返ってみます。

*****

語ることは騙ること、とよく言われるとおり、
ある口ぶりで語ることは、その口ぶりが示すタイプの人間を演じること、その種の人になりきることに通じます。

こにりょさんの命名による「じいさんしゃべり」(3月2日)は、その典型でしょう。

もちろん、演じることは単に「だます」ことにあらず。

ちょうど先日、劇作家の平田オリザ氏と霊長類学の山極寿一氏がTVの対談で話されていたとおり、
演じるということ、ある役割を演じるということは、
社会的関係をきずく上でかなりベーシックな営みでしょう。

カメレオン人間、などという言葉もあるようですが、
そこまで適応主義的にならないにせよ、
様々な場面に応じてそれなりに柔軟に色んな役柄を演じ分けるなかで、
私たちの個性というか、「人柄」と呼ばれるものも次第に出来上がっていくのだと思います。
(→「性格」3月30日)

また、そのように演じ合うなかで、
私たちは互いの心の中に少しずつ自分の居場所を見つけていき、
他人でありながらもどこか他人ではない関係というものを作っていくのだとも思います。

夫婦も演じあうことで面白みが出てくる、とは
先述の対談での山極氏の名言ですが、
私は「オバちゃんコミュニケーション」(3月16日)もまた、
そのような文脈で受け取りました。

*****

そのように、コミュニケーションということを人とのかかわり全体として考えてみると、
言葉の果たす役割、とくに明確な「意味」の乗り物としての役割が占める場所は、ある程度差し引かれるべきかな、という気がしてきます。

たとえば初めて訪れた異国の地で、
言葉の意味ではない、何かが伝わることがある。
(→「外国にて」4月13日)

あるいは、正しい言葉遣いよりも、
その壊れように、一同の関心が向かってしまうことがある。
(→「オマエハ、ダレダ」5月4日)

さらに言えば、
狭い意味での言葉に限らず、ある種の「かたち」やデザイン、
しかも、誰が何の目的でつくったのかもわからないものにすら、
私たちは心をくすぐられたり、なごまされることがあるわけで。
(→「すずらんのデザイン」3月23日)

それらもすべてひっくるめて、コミュニケーションの多様な形態ということを考えるなら、
それはきっと、「人間」(人の間)というワクすら越えて広がるものになってくるのだろうと思います。

   by 堀マサヒコ
posted by 面 at 02:01| Comment(0) | シナプス接続 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月11日

ことば

テレビを見ていたら、名古屋市長の河村氏が名古屋弁の復権を目指しているという。
言葉は文化を構成する重要な要素で、方言に誇りを持つことは地元意識の向上にもつながるというのがその根拠らしい。そのおり、「織田信長も名古屋弁をしゃべっていたんだぎゃや」と言っていたのが印象的だった。

そこで最近話題のレッドクリフの一場面を考えてみた。諸葛亮が孫権を説得するシーンで、ふたりの間ではどのような言葉が交わされたのだろうか。

諸葛亮は長江より北の出身で、長江の南に育った孫権と会話が成立したのであろうか。現在でも中国各地には方言があって、お互い地元言葉で話したら通じない。そこでいまは普通語(標準語)を設けてテレビ・ラジオで流したり、学校で教えたりしているので方言と普通語のバイリンガルが増えている。

しかしいまから1800年前はどうだったのだろう。秦の始皇帝は文字は統一したが、言語は統一しなかった。漢字は表意文字であるので、書けば意味がわかる。しかし言語は統一されずに今日まで方言として残っている。

では、諸葛亮はどうやって孫権と交渉したのか。書面で遣り取りしたのだろうか。『三国志』のなかでは諸葛亮が孫権に語りかけ、孫権もそれに答えたことになっている。ということは、二人は共通する言葉を利用していたと思われる。

5世紀末の事例だが、北方の遊牧民族鮮卑が建てた北魏では、鮮卑語と漢語という漢語の方言以上の言葉の壁を抱えていた。それをどうやって克服したかというと、はじめは両言語に通じた漢民族を通訳として使っていたが、6代目の孝文帝のとき、朝廷で使用する言語は「正音」(当時の河南方言)にすると定め、共通語を設定することで言葉の壁を乗り越えた。秦漢の400年のうちに朝廷で使用する共通語が成立したとしても不思議ではない。その共通語で官僚予備軍は大学の講義(儒教の経典をはじめとする古典)を聴き、音読したであろう。

諸葛亮も孫権もいずれも後漢の官僚に連なる家の出身者であることから、なんらかのかたちで共通語をマスターしていたであろう。よってレッドクリフのあの場面で二人が現在の普通語で会話していたのはある意味正解ということになる。そこに当時の中原漢語の発音を求めるのは無理というものだ。

松下憲一 (東洋史)
posted by 面 at 00:00| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月04日

オマエハ、ダレダ

近年、主に1年生のために基本的な文章作法の授業を設ける大学が増えています。

私もあるところでそれを手伝っているのですが、
先日、同じ授業を別のクラスで担当しているAさんと、
「破格」というのをどうやって教えたら良いだろうか、という話になりました。

その大学で使っているテキストでは主に、主語と述語の関係が破綻していることを指して破格と言っています。

日常会話では、その意味での破格があっても要するに話が通じれば良いわけですが(ブログもね)、
レポートや論文ではそうはいかない。

その辺が感覚的に難なく使い分けられる学生もいますが、
さっぱりわからない、という学生もいます。

Aさんのご専門は分析哲学。
論理的思考にかけては最も長けた、というかこだわりの強い人たちの集まる学問分野と言えるでしょう。

そういう人たちが集まると、
日常会話においてすら、「破格」をはじめとする論理の破綻を見過ごさない独特の緊張感(?)が立ち込めるそうで、
ある日、一人の院生が帰りがけに

   「この傘、僕ですか?」

と口にしたところ、

   「いいや、それは君ではない」

と、一斉にツッコミが入ったのだとか。

もちろん、突っ込んでる方も単に面白がってるだけなのですが、
これは確かに、「破格」の好例。

それ、僕も授業で使わせてもらいます、と言った後で、
「でも、そこでむしろ、

   「そうだ、まさにその傘が君だ」

という返し方もありますよね」、と私。

宗教学の研究室(私はそこに属してました)なら、
そういう返しになりますよ、と。

寝不足のまま朝イチの授業を終えた後の、
ゆるーいおしゃべりのひとコマですが、
案外、それぞれの学問分野の特質を言い当てたところがあるなあ、
と、ちょっと後を引くおかしさが残ったやりとりでした。

     by 堀
posted by 面 at 01:09| Comment(0) | 名づけえぬもの | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。