2009年04月27日

食と文化と文明と。

宗教の食餌規定の多様性や、生命倫理学などで話題の「動物の権利」や「動物福祉」の問題などを考えているうちに、人間と動物との関係を、自分自身の日常生活、特に食生活の面から考え直してみたいと思うようになりました。

非常勤先の大学で「人間論の基礎」という授業を担当していることもあり、何か映像資料をもとに、学生と一緒にこのことを少し考えられないものか、と思い、候補として、以前から気になっていた二本のDVDを見てみました。

一つは、
ジブリ学術ライブラリー「人間は何を食べてきたか」全8巻中の第1巻。
三つのセクションに分かれた一つが、主にドイツの肉食文化のありようをレポートしたもので、農家の庭先で豚が解体されるシーンが含まれています。

もう一つは、
2005年に公開され、日本でも話題になった「いのちの食べかた」。
(ニコラウス・ゲイハルター監督、オーストリア・ドイツ合作)
こちらは今日の機械化・工場化された食品生産の状況が、その中で「生産」され、「加工」されていく鶏や豚、牛などの姿を淡々と映しこみつつ、描かれています。

どちらもセンセーショナリズムや感傷に訴える演出を排した良質の作品ですが、それだけに、屠畜の場面に関しては主に活字やイラストを通しての想像にとどまっていた私にとっては、多少とも動揺を伴う内容ではありました。

しかし、一口に屠畜の場面といっても、受ける印象は二つの作品において、ずいぶん異なっています。
より強い動揺を覚えたのは、圧倒的に後者です。

前者がもともとNHK教育テレビのスペシャル番組として放映されたもので、いくつかのシーンを静止画像で処理するなど、ある種の配慮を感じさせるせいも(いくぶんかは)あるかもしれません。

しかし、本質的なのはやはり、映されている状況そのものの違いでしょう。

前者における、農家の庭先でのそのシーンは、レポーターを務めた女性自身が語るように、解体を行う職人のナイフ裁きの見事さや、それを静かに見つめる、この農家の少女の眼差しに吸い込まれるような感覚があり、何か神聖な儀式を見ているような気にさえなってきます。

後者においても、もちろんその作業を行う人たちはいるのですが、機械が媒介、あるいは見ようによっては主体となっている要素が強いせいか、職人というよりは、作業員とかオペレーターという言葉があてはまるような印象です。

光が人工的だと、それに照らされるものも人工的に見えてくるというのは、以前、私が全く別の文脈で自分のブログの中で書いたことなのですが、後者の作品を見ていても、そのことは実感されます。

農家の庭先で、太陽の光のもと繰り広げられる光景がドイツ文化の一端を垣間見させてくれるのとは異なり、青白い照明にまんべんなく照らし出された食肉工場の風景は、どこの国のものでもあるようで、同時にどこか、現実から遊離した世界のようにも見えます。

文明のみがあり、文化の脱色された世界とでも言うべきでしょうか。

もちろん、この作品は、食品生産の機械化や、ましてや肉食文化そのものを大上段に告発するというような意図のものではないでしょう。

夜間、街路灯に照らされた木々の「不自然な」緑が独特の美しさを感じさせるように、この映画の中にもやはり、ある種の美があることは確かです。

この美を自分の中でどのように位置づけたらよいのか。
答えはまだ見つかっていません。

     by 堀(宗教学)
posted by 面 at 00:00| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月20日

あとがきを読む

推理小説、ミステリィ小説の「あとがき」「解説」だけを100冊分読もうと思い立ち、まなじりをけっして図書館に向かう。本篇は読まない、あくまでも「あとがき」「解説」だけだ、と悲壮な決意で向かう。

まず、簡単なルールを定める。
一、50音順に、手当たり次第、読むこと。
一、本編はもちろん、あらすじ、作者略歴等も読まないこと。
一、手にとった本は棚に戻さず読むこと(ただし推理小説、ミステリィ小説でないと判明した場合は除く)。

予め結果を述べておくと、100冊分読了することは、できなかった。なぜか。

★★★


苦痛は最初、ある種の「もどかしさ」として、あらわれる。作品の性質上、具体的な記述は差し控えるのだと、解説者たちが口を噤む場面である。
「未読の読者の興をそぐことになるので、具体的な作品名は挙げられない」(歌野晶午『さらわれたい女』、解説:法月綸太郎)
「解説から先に読んでいる読者のために具体的な指摘は出来ない」(二階堂黎人『ユリ迷宮』、解説:千街晶之)
要するに、「未読の読者の興味をそがないよう、なるべく遠巻きにして」(綾辻行人『黒猫館の殺人』、解説:法月綸太郎)語らねばならないのである。

遠巻きに語ろうとするためか、解説者たちの前置きは、長くなる。
「以上、長々とした前置きはこれくらいにして、本論に入る」(東野圭吾『放課後』、解説:黒川博行)
「さて、洒落にならないくらい前置きが長くなってしまったが」(森博嗣『冷たい密室と博士たち』、文庫版解説:西澤保彦)
「さて、前置きが長くなった。そろそろ本題に入らねばならない。」(法月綸太郎『雪密室』、解説:三橋暁)
まったく、もどかしいのだ。

とはいえ逆に、解説が具体的すぎる場合にも、問題が残る。
「以下、事件の真相に触れている箇所があるので、本編読了後にお読みください」(京極夏彦『魍魎の匣』、解説:山口雅也)
「本作を未読の方はご注意ください」(岡嶋二人『99%の誘拐』、解説:西澤保彦)
「以下、当然、内容に触れることになる。作品から先にお読みいただきたい」(宮部みゆき『我らが隣人の犯罪』、解説:北村薫)
せっかくの忠告ではあるが、ルールに従う以上、本を棚に戻すことはできない。かといって、今すぐに、本編を読むこともできない。うしろめたい気持ちを抱えつつ、ページをめくるしかないのである。

ところで、この「うしろめたい」気持ちは、一体何なのか。作者と解説者に対して非礼をはたらいているという、一種のやましさだろうか。30作目あたりまではそう思っていた。けれどもやがて、そうではないと、感じ始める。ここでのうしろめたさは、道義上のものではなく、もっと不気味で、不吉で、まがまがしい種類のものではないか、と。

どうして不吉で、まがまがしい印象を受けるのか。うまく説明することはできない(できていれば、それほど不吉ではないだろう)。

作品世界と外部世界とをつなぐ、いわば緩衝地帯としての、「あとがき」「解説」。そこは既に小説作品そのものではないが、確かに作品と同じ本の中で、となりあっている領域だ。その親密さを無視し、緩衝地帯だけに上がり込みむこと。作品世界を遠巻きに、出口の側からだけ覗こうとすること。それが、どういうわけか、不気味な行為のように感じられたのである。当初の意気込みは萎え、結果的に、100冊分を読むことはできなかった。

★★★


次は学術書の「あとがき」を読もう、と懲りずに思い立ち、図書館を後にする。

written by IMA
posted by こにりょ at 00:00| Comment(0) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月13日

外国にて

先月、ウィーンとミュンヘンを訪れる機会がありました。

いくつかの美術館をたずね、これまで美術書でしか見たことのなかった作品を見ることができたのは、心踊る経験でした。
中世の宗教画のぎこちない表現に、
かえって誠実な信仰心が感じられて感動したり、
ルーベンスなどバロック絵画のあまりの大きさ、
ドラマティックさに気圧されたり。

また、街並みを歩くのも楽しいことでした。
古い建造物が歴史的遺物として突出しているのではなく、
街景をつくる要素として馴染んでいるのが印象的でした。
シュテファン大聖堂は、13世紀の昔からウィーンのシンボルとして
街の中心にそびえています。
ゴシック様式の重厚な姿は、もう「建っている」というよりも
そこに「生えている」といった印象で、
その圧倒的な存在感は、思わず口が開いてしまうほど。
自分の文化とは異質な世界のなかに身を浸し、
刺激的だったり、居心地が悪かったり、楽しかったりの1週間ちょっとでした。

やはりドイツ語圏に行くからにはドイツ語を多少は覚えよう、
と出発前に教本を買ってはみたものの、
あえなく挫折、3つくらいの挨拶を覚えただけで、
あとは怪しい英語で通しました。
それで、伝えたいことをうまく伝えられないもどかしさに、
やはり言葉は大事だな、と痛感する一方で、
言葉が通じなくても伝わることもあるな、
ということを感じもしました。

何人かの印象的な人たちの顔や佇まいを思い出します。

いつも必ず明るい声で挨拶をしてくれた、
ウィーンのホテルのフロントの、大きな強い目の女の子。
入っていくと人懐っこそうに微笑んでくれた、
分離派会館の係員の黒髪ショートカットの女の子。
ミュンヘンのノイエ・ピナコテークで
「音声ガイドは無料なんだからぜひ借りてきた方がいいよ」
と私をつかまえた監視員のおじさん。
鈴のような声で、「いつかまた来てね」と言ってくれた、
ミュンヘンのホテルの女の子。
ドイツビールの美味しさに、「ビール、今度は大きいサイズで」と言ったら、にやりと笑ったレストランのウェイターのおじさん。
ミュンヘンの駅で、空港までの切符の買い方を一生懸命教えてくれた
初老の知的な男性。
(彼でも「Oh,god!」とつぶやくくらい、わかりにくかった)。

それぞれ、多くの言葉を交わしたわけでもないのに、
あまりに記憶は鮮やかです。

何も別に外国じゃなくたって、日々の暮らしのなかでこの人いいな、
と思うことはあるわけですが、
言葉から得られる情報の少ない分だけ、
細部が捨象されたその人の人間性の根っこみたいなものが、
なおさらダイレクトに伝わってきたんじゃないかと、
そう思ったのでした。
「人柄がにじみ出る」という表現をすることがあるけど、
ほんとにそういうものなんだなーとあらためて感心したというか。

もちろん、長くつきあわなければわからないこともたくさんあるけれど、
案外、会った瞬間に感じることが、
その人のいちばん本質的な部分なのかもしれないです。

もうおそらく会うこともない魅力的な人たちが、
今回訪れた街の印象となって、強く心に残っています。

by H(美術館学芸員)
posted by 面 at 13:18| Comment(0) | 人のあいだに | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月06日

変わるもの変わらぬもの

中国の古典に『易経』という書物がありますが、これは占いの本でありますが深遠な東洋の哲理が書かれた本であるともされています。
この易は何回読んでも難解なのですが(笑)、この易には三義ありといいまして易は世界について三つのことを表現しているといわれています。

一つは変易、これは変わるということ、易は変わることを表しているというものです。
易(正確には『易経』)は西洋で変化の書(『book of changes』)と訳されていますが変化する世界を易は表しているところから付けられたのでしょう。
二つ目は不易、これは変わらないということ、易は変わらないことを表しているというものです。
先ほどの変易と矛盾するようですが東洋の哲理はこのように一見すると矛盾するような表現が多いです。
三つ目が簡易、簡単ということ、易は世界は簡単、シンプルであるということを表しているというものです。

易の解説書(『易経』岩波文庫など)を読むと、森羅万象が刻一刻と変化している(変易)なかで変化しない法則がある(不易)、そしてそれは陰陽という簡単な二つの記号で表すことができる(簡易)と書かれていて、変易と不易が矛盾しないことと簡易を含めた三つの関係性を説明しています。

変わることと変わらぬことが並存するという視点に立てば生殖(生物が子孫をつくる過程のこと)などはそのさいたるものです。
馬でいえば雌雄がいて親とは異なった遺伝子を持つ子供が生まれる、つまり生殖は変わることです。(なかにはアメーバの分裂など無性生殖で単一の親から子へ同じ遺伝形質が伝達されるものもありますが特殊な例なのでここではふれません。)
でもその変わることは無制限ではありません。
雄ロバと雌馬との間の雑種でラバというのがありますがラバ同士の繁殖は不可能といわれています。
伝説のキマイラは存在できない、存在してはいけないということなのでしょうか?
馬は馬、ロバはロバでなくてはならない、変わらない変わってはいけないということなのでしょうか。

鍼灸などの伝統文化なども同じことが言えるかもしれません。
中国、韓国、日本で鍼の形や診断、治療方法が異なります。
同じ日本でもいろんな流派がありそれぞれ異なっています、なかには小児はりなど刺さない鍼もあります。
時代や地域によって様々に変わる鍼、でも鍼としての共通性があり、変わらない鍼、変わってはいけない鍼。

変わるものと変わらぬものが並存する世界、易はそんな世界を表現しているのかもしれません。


by ふくだ (鍼灸師)
posted by 面 at 00:00| Comment(0) | 仕事場のパンセ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。