2009年02月23日

シナプス接続 その2

管理人です。
このところ私のところに留まりがちだった本ブログのバトンですが、
ようやっと来週から、二巡目に入る予定です。

そこでまた、ここ2ヶ月間の記事へのコメント、というかそれらに触発されて考えたことなどを、記させていただきます。

          ★★★

1月19日、美術館学芸員、Hさんの「愚直、について」

職場にも慣れ、「効率よく」仕事をこなすことを考えるようになった今だからこそ、そういうモノサシにはそぐわないもの――たとえば、「愚直さ」と呼ばれるようなもの――を改めて大切にしたい気持ちも出てきた、とのお話でした。

確かに、私たちの住んでいる社会は、こと「仕事」という面では何よりも効率の良さを求める傾向が強いですね。
「ムリ、ムダ、ムラ」を排除せよ・・・かつて受けた、社員研修で繰り返されていたフレーズを思い出します。
それ、ほぼ俺の全成分だよ、と思ったことも(笑)

時間との付き合い方、という面で言えば、効率を求める立場は徹底して、時間を「使う」視点に立つものだと思います。

その視点からは、時間そのものは空虚な入れ物に過ぎず、その中にどれくらい多くのものを詰め込むことができるかが重要だ、ということになるでしょう。

しかし、私たちはもっと違った形での時間との付き合い方をも、求めているはずです。
時間を「使う」のではなく、たとえばそれを「味わう」ことや、時にはそれを「超える」ものに視線を注ぐこともまた、必要なのではないかと思うのです。

いささか唐突ですが、フランスの文筆家、ロジェ・カイヨワは人間の体験世界を「俗」なる労働の世界と、遊びの世界、そして「聖」なる祈りや儀礼の世界に区分しました(一般に「聖・俗・遊」図式、などと呼ばれています)。

(時間を)「使う」視点は俗なる労働の世界に、
「味わう」視点は遊びの世界に、
「超える」視点は聖なる祈りの世界に、それぞれゆるやかに対応するかと思います。

カイヨワが示唆したように、私たちはこれら三つの世界の一つにだけ、住んでいるわけではありません。

Hさんは日々、時間に追われる労働の世界を生きながらも、
敢えて「愚直」さを保持するという選択を通して、
その外側の世界との往還の通路をしっかりと確保されているのだと思いました。

           ★★★

続いて1月26日、Iさんの「議事録を書く」

Iさんとは先日、久々にお会いして、あまり日数に余裕のない中、寄稿をお願いしたのですが、届いた原稿を一見して、うーん、やっぱり只者じゃないなあ、と。
いや、只者なんてこの世にはいないんですけどね(笑)、
こういうウィットに富んだ文章を書ける才能というのは、やっぱり稀有なものだと思います。
「小鳥たちが飛び立つ」ところで思わず吹き出してしまいました。

議事録が会議の内容を写し取るのではなく、
むしろ会議が「議事録の影」になるという逆説。

フロイトの言う記憶の事後性や、
言語哲学における写像理論の無効化(というのは言いすぎかな)など、
色んなことを想起させるところですが、
過度に理屈ぽくならない脱力感がまた、Iさんの文章の持ち味ですね。

          ★★★

最後は2月16日、徳田さんの「理想」

徳田さんの文章を読んで思い出したのは、
アラーキーこと荒木経惟氏が編集した写真集、『恋する老人たち』(筑摩書房、1993年)の最後に収められた、一枚の写真です。

この写真集は、様々な写真家が撮影したお年寄りの写真の一つ一つに、
荒木氏がコメントを加えたものです。
最後の一枚には、荒木氏自身が撮影した深川のきんつば屋さんのおばあちゃんの写真が選ばれています。

これに添えられた荒木氏のコメントは、手書きのニュアンスも含めて味のあるものなので多くは引用しませんが、
一つには、一見して多くの人が心をひきつけられるであろう、このおばあちゃんの笑顔のすばらしさを、
二つには、「ずーっとアンコ練ってるから」こその、しっかりとした手指の美しさを、称えています。

もう15年以上前に買った本で、そう頻繁に頁をめくるものでもないのですが、この1枚、特にその手指に象徴される、長年月にわたる労働が作り出したこの女性の美しさは、荒木氏のコメントとともにいつでも鮮明に思い出すことができます。

まったく勝手な想像ですが、徳田さんのおばあちゃんもまた、
働き者ゆえの、しっかりとした、美しい手指の持ち主にちがいない、と思うのです。

視覚的情報のみが先行する現代文明の中で、自らの手足を思い切り使って遊んだり、そのようにして働いたりすることをどこか避けながら育ち、生きてきた私。
フィルムに包まれた魚肉ソーセージみたいにつるんとした自分の指を見つめていると、自らの「手の歴史」の貧弱さを思い知らされる気がします。

          ★★★

          written by 堀マサヒコ
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2009年02月16日

理想

はじめまして。徳田新之丞といいます。
ウソですけど。

今日は、いま僕をいちばんやさしい
気持ちにしてくれる女性について書きます。
いつも笑顔で、料理が上手で働き者の、
とてもかわいらしい女性です。
けれど彼女の心にいるのは、どうやら僕ではないらしい。

僕の祖父が逝ったとき、
彼女は告別式で一度だけ涙を見せました。
けれど、その後皆で食事をしたときには
「じいちゃんならいい男だったけど、
子供も孫も、誰も似なかったもんね」と笑っていた。
そのとき僕は、彼女の前でだけは
いつも笑っていようと心に決めました。

最近よく口にする、彼女の口癖があります。
「じいちゃんもあの世に行ってしまったし、早く行きたいけど、
このまま病院にいたら百まで生かされるわ」
そう言いながら彼女は、補助器具を使って毎日歩いている。
先生に怒られるから、と大げさに嘆いて見せながら。


来月、僕のいとこが結婚します。
それからもうすこしたてば、
彼女にとって初めてのひ孫が生まれる。

けど、僕だってお嫁さんや子供の顔を見せたい。
じいちゃんに見せられなかった分、
ばあちゃんにだけは絶対に見てほしいから、
もうちょっとだけ我慢しててよ。

あと、できたらまたばあちゃんの「いずし」が食べたいな。


          written by 徳田新之丞
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2009年02月09日

宗教が一つになれば?

またまた登場、の管理人です。

大学で宗教学の授業を担当させていただいて、
7年目になります。
ほぼ毎回、学生の皆さんに質問やコメントを書いてもらっているので、
その数は膨大になります。

それらにスパッと明快に答えて見せる、というのはいまだにうまくできないのですが、
少なくとも「よくある質問」というのがかなり把握できてきた、という面はあります。

          ★★★

たとえば、「世界中の人がみんな同じ宗教を信じれば、
戦争のない平和な世界になるんじゃないでしょうか」、というもの。

ずいぶんと無茶な想像だと思いますが、
わりと頻繁に見られるコメントの一つです。

確かに、すべての宗教が統一され、宗教の違いがなくなれば、
宗教の違いによる戦争はなくなるでしょう(当たり前ですが)。
しかし、それ以外の戦争はなくならないかもしれません。

それにまず、すべての宗教を統一するために、
とんでもなく大量の血が流れなければならないでしょう。
たとえ、その果てに戦争のない状態がもたらされたとしても、
それを「平和な世界」と呼べるでしょうか。

          ★★★

それにしても、宗教の違いが一切なくなった状態とは、
いったいどういう状態なのでしょうか。

ある哲学者が、
万人が神の存在を信じれば、それは「信」よりも「知」の問題として処理されることになるだろう、と言っています。

実に、そのとおりだと思います。

何かを「信じている」、という言い方は、
一方でそれを信じていない人がいるからこそ成り立つものでしょう。

「世界中の人がみんな同じ宗教を信じれば」
という仮定は、結局、宗教というもの(より正確には、宗教を「信じる」ということ)がこの世から無くなった状態を想定することになるのではないでしょうか。

実際、
「この世から宗教が無くなってしまえば、世界は平和になるんじゃないでしょうか」というのもまた、わりと数多く目にするコメントで。
趣旨は上のものとあまり変わらないのではないかと思います。

この種のコメントに対しては、
「君たちはまったく、命をかけて戦争に反対してきた宗教者の存在を知らんのか」、と、お怒りになる先生方もいらっしゃるかもしれません。

しかしながら私はむしろ、
「宗教の統一」という仮定を取るにせよ、
「宗教の消滅」という仮定を取るにせよ、
そもそも人々の間に違いや、違いを生み出す要因がなくなればこの世は平和になるにちがいない、という何とものっぺりとした発想自体が、どうも理解しがたく思います。

違いを無くすことよりもむしろ、
違いを許容し合える世の中を作ることのほうがよほど大事なんじゃないだろうか、
と、ありきたりでもやっぱり、言わずにはいられません。

          written by 管理人(堀)
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2009年02月02日

包む、切る、つなぐ

管理人です。 根回しが遅れ、バトンが手もとに残ってしまいました。

議事録書きに悩まされているIMAさんの助けにはならないと思いますが、今日は「図解」というツールについて教えてくれる本を一冊、紹介したいと思います。

永山嘉昭著
『説得できる図解表現200の鉄則』日経BP社、2002年。


          ★★★

話すときでも、書くときでも、できるだけ広く伝わる言葉を使いたいし、使えるようになりたい、と思っています。
その場合、図解というのが第二の言葉というのでしょうか、ともかく非常に大事だということにわりと最近気がつきまして、上のような本を手の届きやすいところに置いています。

もちろん、よく言われるとおり、図解には単純化がつきもので、
あまりこれに頼りすぎると大切なものが抜け落ちたりすることもあるでしょう。
しかし、そうした難点も含めて、
図解のはたらきには、
言葉のそれとよく似ている面もあります。

言葉とは何ぞや、ということを学生の頃(今もその延長ですが)からあれこれと、ただし途切れ途切れに考えてきまして、
色んな言語理論の切れ端のようなものが頭には残っているのですが、
少なくとも何かを人に説明するための言葉に関して言えば、そのはたらきは

@ 包む(まとめる)
A 切る(区別する)
B つなぐ(関係づける)

という三つに集約されるのではないか、と今はかなり単純に考えています。

結局これは、説明のための図を作るときと同じアクションでしょう。
実際、ちょっと表現は異なりますが、上記の本の著者も

@ 囲む
A つなぐ
B 配置する、

が図解のすべて、と述べておられます。

そのような前提のもと、この本では例えば、
「囲む」際に四角を使うのと丸を使うのでは印象にどのような違いが出るか、とか、
「つなぐ」際に全体の動きを右回転にするのと左回転にするのとではどう違うか、など、自分ではなかなか気がつきにくい効果、あるいは逆効果の具体例が豊富に挙げられていてタメになります。

posted by 面 at 01:16| Comment(0) | お薦め | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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