2009年01月26日

議事録を書く

「議事録」を書く際の労苦については、一般に、ほとんど省みられることがない。

議事録とは、読んで字の如く、会議等の「議事」を「記録」した文書にすぎず、その目的は、発言を忠実に採録し、議論の筋道を精確に伝えることだ、と思われている。だから、議事録書きは機械的な作業であり、要するに「雑務」だ、というわけだ。

けれども本当にそうだろうか。

某社に籍を置くようになって一年数ヵ月、私は、少なくとも月に2本、多い時には月4本の議事録を書いてきた。定例会議、管理者会議、労使交渉、社内業務監査。ひたすらに書いた。そして辛酸を舐めた。

               ★★★

翻訳がある意味で身体的作業であるように、議事録書きもまた、身体的な作業だ。ただし、別種の筋肉を用いる作業である。

たとえば学術書の翻訳ならば筆者一人の論述を追えばよいだろう。論述は、翻訳者がページをめくり、目で言葉を追うときにだけ現れるはずである。

それに対して会議の席上では、通常、発言が止むことはない。絶えず誰かが、何かについて、何かを語っている。早口の発言者もいる。不明瞭な発音もある。ときには議論が枝分かれし、議場で二つ、三つの話題が並行して語られることすらある。

やがて議論が熱を帯びてくる。上司が部下を面罵する。部下が負けじとやり返す。同僚が横槍を入れる。野次が飛ぶ。滔々と弁じ、まくしたて、口角泡飛ばしたかと思えば、一歩引いて語尾を濁す。机が叩かれ、グラスが割れ、小鳥たちが飛び立つ。当初の議題など、もはや、誰も覚えていない。

それでも議事録書きは筆記を続けている。頭も上げず、黙々と。しかしながらここでは、彼が言葉を追っているのではない。言葉が彼を追い立てているのだ。

発せられた言葉を漏らさず筆写することは不可能である。発言の要点を瞬時に判別し、より画数の少ない書き方を(漢字よりもひらがなを、ひらがなよりもカタカナを、カタカナよりもアルファベットによる略号を、それすら間に合わなければ→や○や×といった記号を)選び取る。即興で新しい記号が生み出されることも稀ではない。

メモをとること自体がすでに、ほとんど身体的なレベルでの、反射的選択の積み重ねだ。

そして日が暮れる。会議が終る。待っているのは残されたメモを整理し、文章化するという作業である。締切は翌朝。ここでもやはりスピードがものを言う。

何を省き、何を補うのか。限られた時間ゆえに熟考は許されない。記載すべき発言と省略する発言を、ほとんど流れ作業のように、手際よく、より分けていく。居合わせた者たちが場の雰囲気から汲み取った結論(「それはまあ、そういうことで」云々)を、誰が読んでも理解できる文章へと整形していく。

選択の基準は重層的だ。社内での序列。人間関係。発言者の性格。あるいは会議の性質や、議事録が回覧される範囲も考慮に入れる。

               ★★★

こうした数々の選択を経て書かれた議事録は、結局のところ、会議そのものの記録であるとは言い難い。実感としてはむしろ逆だ。つまり、実際に開催された会議の方が、議事録によって事後的に、「会議」としてのまとまりを与えられていくのである。会議は、いわば、議事録の影となる。

あるいはこうも言えるだろう。議事録というスタイルが「会議」の格式を保証するのだ、と。突飛な例と思われるかもしれないが、たとえば十七世紀のフランスでは、発足したばかりの絵画・彫刻アカデミーが、定例会議の議事録を刊行していた。アカデミーが必要としていたものは、単なる会合や寄り合いではなく、議事録という体裁に裏打ちされた格調高い「会議」だったのであり、絵画や彫刻を、そうした「会議」にふさわしい議題に高めていくことだったのである。

もちろん、私自身が携わっている議事録書きは、そんな大袈裟なものではない。だが、それでもやはりいつも、単なる会議の記録とは別のものができてしまう。議事録は嘘をつく。注意が必要である。

               written by IMA
posted by 面 at 09:22| Comment(0) | 仕事場のパンセ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月19日

愚直、について

はじめまして。
美術館の学芸員という仕事をしているHといいます。
仕事の内容はいろいろですが、
美術展をつくる仕事にいちばん手間ひまをかけています。
今日は仕事について最近思ったことを書いてみます。

この頃気をつけないといけないな、と思うのは、
「仕事をする」ということ自体を目的にしてしまうこと。
この職業に就いて3年ちょっと経ち、仕事をいかに「効率よく」こなすか、
ということを考えられる余裕が出てきたけれど
(考えるだけで必ずしもうまくいってはいませんが)、
そればかりを優先してしまうと、
その結果は「痩せた」(堀さんのお言葉を拝借)ものになってしまう、
と感じることが何度かあったからです。

もちろん仕事は効率よくスマートに進めることに越したことはないのだけど、
私たちが相手にするのは美術作品だから、
誠実に向き合って、作品を生かすために心を尽くさなくてはならない。
そうでないと、そもそもこの仕事の意味がない。
だけど、ひたすら時間に追われて、「忙」という漢字のとおり、
心を亡くしかけている、と思うことがないわけではないのです。

このあいだ、ある作家と話をする機会がありました。
東京で活躍するいわゆる新進気鋭の画家で、
札幌で彼をゲストに迎えたトークイベントがあり、
そこで聞き手役をつとめることになったのでした。
彼は一時期同じ学校に通っていた旧知の友人で、
同じ美術の世界で仕事をしていることを嬉しく思っていたし、
彼の作品も好きで、どこかで展示されるときにはできる限り見に出かけていたけれど、
いつもタイミングが合わず、本人とゆっくり話をする機会を持てずにいました。

思いがけない役回りに期待半分、不安半分。
あらためて彼の書いた自作論を読んでみると、けっこう難解です。
果たして私に彼の話の相手がつとまるのかしら...とすっかり弱気に。
弱気のまま、当日、打ち合わせにやってきた彼を迎えました。
とりあえずは形式上の諸々の確認をし、
いざ、彼の作品について聞いてみたかったことをぽつぽつと尋ねてみます。
彼はていねいに言葉を選びながら答えてくれました。
そうすると、その答えから、また次の問いが生まれます。
話していくうちに、じつは彼もそれなりに緊張していることがわかり、
そうすると私は逆になんだか安心してしまい、
気持ちがほどけて、さらにいろいろ話ができたのでした。
ひとしきり話したあと、これなら本番も話せるね、と笑いました。

さて、本番。
聴衆を前にして、もちろん2人で話したときよりはフォーマルになったけれど、
私は尋ねたいことを尋ねることができて、彼は誠実に話してくれて、
もちろん聞いていた方たちすべてにではないだろうけれど、
何人かには彼の言葉がとても響いたように思えました。
私の個人的な収穫は、私が彼の作品の何を好きなのかがわかったことでした。
(彼の名前を伏せているので読む方には伝わらないと思うけれど、自分のために覚え書き)
彼の絵が「何かについて」の批評のような狭量なものではなくて、
その前に立ったときにすぐさまどこかへ連れていってくれるだけの力をもっているところ。
絵にできることを信じるまっすぐな力強さと、目に美しいものを肯定するおおらかさ、
それが独りよがりのものにならないように抑制する冷静な知性。

たぶん大切にすべきなのは、
わからないのに、わかると言わないこと、
どうしてと尋ねること、
それらしい言葉で取り繕うのではなくて、
拙くても自分の思うことにしっくり合う言葉を選ぶこと。
こちらがそういう心持ちでのぞむなら、相手も応えてくれるような気がするのです。
見栄や、虚勢や、臆病の殻で身を守ると、
自分の中味を見せないから恥ずかしい思いをせずに済む代わりに、
相手から発せられ、自分のなかに入って来るものは、たぶん何もない。
なんだか少し大げさになったけれど、
今回のことを通して、何かと誠実に向き合うということは、
そういう愚直さを持つということなのではないか、と思ったのです。

それで最初の話に戻ると、何かを「効率よく」成し遂げようとするとき、
切り捨てられているのがその愚直さだと思うのです。
たとえば作品についての言葉を書くことが仕事のひとつである私は、
〆切に追われて、行き詰まってしまったとき、
ついそれらしい言葉でそれらしくまとめてしまいたい誘惑にかられます。
でも、自分の選んだ言葉が本当に作品のことを言い当てるのにぴったりした言葉なのか、
自分が伝えたかったことは本当にこのなかにすべて書き切れているのか、
などなど、悩んだり、迷ったり、停滞したり、思いついたり、
失敗したり、うまくいって欲が出たりという、
いつ終わるとも知れない自分内問答に時間を費やさなければ、
その文章は薄っぺらい、前にどこかで読んだようなものにしかならないのです。
でも、心を尽くしたものであれば、読者にとってはどうあれ(いや、重要ですが)、
少なくとも自分にとっては真実の、納得のいくものになる。
なんでもかんでもそうやって愚直にやっていたのでは体がいくつあっても足りないけれど、
最低限、作品に直接関わる仕事については、「効率」とは無縁のそういうやり方を大事にしなくては、とあらためて思いました。

なんだか〆切間近の原稿を抱えている自分に自分でプレッシャーをかけてしまいましたが、
願わくば、愚かしいまでに正直な精神を内に抱えつつ、外から見た仕事ぶりは至極スマート、
という理想の姿にいつかたどり着きたい、と思うのでした。

               written by H
posted by 面 at 00:00| Comment(0) | 仕事場のパンセ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月12日

「問う人、つくる人」って誰のこと?

明けましておめでとうございます。

今日は、新年最初の記事ということもあり、
本サイト、というか「面」のコンセプトに関わることを、少し書き加えてみます。

「面」では企画当初から、「問う人、つくる人をつなぐ」を合言葉にしています。

広い意味での学問とアートに関わる人を、
それぞれ「問う人」「つくる人」と呼んでみたわけですが、
この呼称は、必ずしもこれらの分野に関わる人のみを指すわけではありません。

たとえば、今日の夕飯を作ること。
あるいは、明日の会議のための資料を作ること。

家庭や会社で行われる「ふつうの」仕事の一つ一つが、
無数の問うこと、つくることから出来ているはずです。

学問的に問うこと、芸術的につくることは、
それぞれ独特の方法論や流儀を要求するものだとしても、
それを可能にしているアタマや手足の使い方には、
家庭や会社でのそれと共通する面がたくさんあるはずです。

学者でござい、アーティストでござい、
などと言って自分たちのやっていることを過度に特別視しているようでは、
学問もアートもひどく痩せたものにならざるをえないでしょう。

昨今、学問やアートの裾野を広げる、という意味で
「アウトリーチ」という言葉が使われる場面が増えています。
まことに良いことだと思います。

しかし、少なくとも学問の世界に関して言えば、
この言葉が「一般人」や「素人」に正しい知識を教えてあげましょうという、
いささか一方的で傲慢な態度のもとに用いられている場面も少なくありません。

どのようなジャンルであれ、正解は専門家がもっている、
という考え方には、大いに疑問の余地があります。

そもそもどこかにゼッタイの正解がある、という考え方自体、
なんともインチキクサイものではありますまいか。

素人に正解を教えてやろう、などという過度の気負い。
専門家に正解を教えてもらおう、などという過度の期待。
(なんか韻を踏むとラップ調ですな)
私たちはこれらを捨ててこそ、より良く問い、より良くつくるためのヒントを、
あらゆる場所・あらゆる人に期待することができるのではないでしょうか。
(思わず演説口調)

そういうわけで。

「問う人、つくる人」をつなぐ、という合言葉は
単に学問やアートを志す人たちをつなぐ、ということにとどまらず、むしろ
「問うこと、つくること」を通してすべての人をつなぐ(つなぎたい)、
ということまでを意味するもの、なのでした。 

ということで、
志だけは高く掲げつつ、あまり無理をせずにやっていきたいと。

・・・今年もどうぞよろしくお願いいたします。

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。