2008年12月29日

シナプス接続。

管理人の堀です。

今年最後の更新ということで、
これまで私以外の方々が寄稿してくださった記事を振り返りつつ、
私自身の勝手な感想、連想などを記してみます。

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まずは11月3日分、こにりょさんの「腰痛対策」
後半に記された、「翻訳にはバッハがいい」という説の真偽のほど、
こにりょさんと同様、私も気になります。
たしか、野菜だか果物だかにもバッハを聞かせると美味しくなる、
ということを言っていた人もいるような気がするのですが、

なぜバッハばかりがそうもてはやされる(?)のか。

何でもハスに構えて見る癖のある私には、
「そういうのって、言ってる人の好みが反映されてるんじゃないの?」と、疑いたくなります。
ロックよりクラシック、的な大雑把なくくりでの話もよく聞きますが、
そういう場合の「ロック」って、何だかものすごく限定されたイメージ(ヘビメタ的なもの)になってる気がしてなりません。

ま、バッハは好きなんですけどね。

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11月10日、古畑さんの「トランペットに目覚める」
こんな一節があります。

―― 神の前ではすべてが平等、とゆう発想が西洋クラシックのルーツ。
    わたしは他のなにかを見下す感じがあたりまえな、クラシック系の輩は
    かんじんなルーツが理解できていないとみている。

確かに、クラシック音楽とキリスト教との間には、
深い関係がありそうです。

たとえば、これは私が以前から抱いている考えというか、まあ思い付き的なもんですが、
クラシック奏者における譜面に対するこだわりの強さ(私の知る限り、ジャズやロックをやる人たちの比ではありません)は、
キリスト教における聖書に対するこだわりに似ているところがあるように思います。

そうした中、おそらくは大半がキリスト教徒ではない日本人クラシック奏者が、
西洋音楽の背景にあるキリスト教的な発想から何を取り出し、受け継いでいるのかというのは、いつも何となく気になっているところです。

その点、古畑さんの姿勢はすごく明確で、
かつ、「クラシックやる人は西洋中心主義者」という、
私のとんでもなく凝り固まった偏見を、見事に砕いてくれるものでした。

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続いて11月24日、佐藤さんの「いっぽいっぽ」

ここでも宗教の問題が触れられています。
日本人の多くが口にする「無宗教」というのは結局、
教団宗教に対する帰属意識の薄さと信頼度の低さの表現であるかと思います。
教団という形をとらない、もっと漠然とした「宗教的なもの」に対する関心は、おそらく「無」ではない。
本当に「無い」のはむしろ、宗教と自分との距離を適切に表現する言葉だろう、と、
私自身のことも含めてそう思います。

そういう言葉を、異国の人たちにもしっかり届くものとして、
各人がゆっくりと模索していくことがこれからは大切だろう(できればスピリチュアル何とかと称する人などに頼らずに)、と、
そんなことをエラソに大学で弁じておるわけです(笑)。

そういう意味で、佐藤さんの書いておられることには感銘を受けました。
特に、カミサマとは運命の言い替えではあるまいか、というのは、
私自身、たとえば旧約聖書などを読んでいると強く感じるところです。

そして何よりも、文章全体から感じられる佐藤さんの気迫というか、
色んなところに頭をぶつけることを恐れずに突き進む姿勢というのが、
ある種、宗教的とも言える求道者の姿勢だよなあ、と思うのでした。

個人的に見習わねばならないところ、たくさんです。

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12月8日、菊地さんの「マルボロのデザイン」

細部にわたる分析の妙、まさにデザイナーならではの視点で、
さすが、と思いました。

ちなみに日本の呪術・宗教的な習俗の中では、
赤は悪鬼や病魔をはらう呪力を伴う、とされる色。

感覚的には多くの人がわかっているところだと思いますが、
赤ベコやダルマ、ふんどしや産着など、
その種の意味づけが想像されるものは、たくさんあります。

このあたりのことをわかりやすく説いた『招き猫は何を招いているのか』(光文社文庫)の著者、辻原康夫氏によれば、
口紅もまた、人体に悪鬼が入り込まないよう、「口元をシャットアウトすることを目的に考案された用具」だという説があるそうで。

マルボロの屋根部分が女性の口元を表している、という菊地さんのお話とあわせてこのパッケージを見直していると、
何となく魔除けっぽいデザインにも見える気も。

さらには、これって巫女さんの衣装に似てるよなあ、などと、
空想は果てしなく続くのでした。

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12月15日、pockleyさんの「パズル」
pockleyさんとは、ふだんやっていることが近いこともあり、
「わかるわかる」、というところがたくさんありました。

なので、それほどコメントも思いつかなかったりするのですが、
パズルという比喩が学問についてとりわけ適切に思えるのは、
好きじゃない人にとっては、もうひたすらめんどくさいものでしかない、というところではないかと。

パズルの命はプロセスにあるのであって、
答えにあるのではないですから、
めんどくせー、と思ってしまえばもう、やる気力など出るはずも無いわけで。

しかも、パズルなら何でも好き、とか、学問なら何でも好き、という人はふつういなくて、やはりその種類によりけり、というところもよく似ています。

いや、それは結局、学問に限らないのかもしれません。

めんどくさいことをめんどくさいと思わないと言うか、
それすらを楽しめるような種類のパズルを見つけることができると、
人生はぐっと楽しくなるような気がします。

たとえそれが、恋のパズルでもね、と、ガラにも無いことを言ってみたりして。 

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最後は12月22日、福田さんの「『面』の道は東洋思想に通ず?」

まず、表題に込められたお考え、
そのとおり、と思います。

私の学んでいる宗教学という学問は、まあいちおう、西洋的なものも東洋的なものも射程に収められるはずのものなのですが、
やはり、明治以降、「学問」と呼ばれるものの仲間入りをする過程で、
著しく近代西洋的な観念の影響、というかほとんど呪縛を受けてきたと思います。

だからといって単にベースを西から東へ移せば良い、というような簡単な問題ではありませんが(そもそもそんなこと、できないし)、
東洋思想から汲み取るべきものは、ふんだんにあると思います。
もちろん、福田さんも言われるとおり、
東洋/西洋という二分法自体が、疑われるべきものではありますが。

それと、いわゆる西洋思想自体の中にも、
合理主義によって切り落とされたものがすごく多いな、と思います。

たとえば、合理主義は言葉の働きをロジック(論理)の問題に狭めすぎたのではないかと。
レトリック、つまりメタファーに代表される様々な修辞の働きには、
それこそ福田さんが言う「つながり」の発見に関わるものがあるわけで、そういうものを再評価していくと、
西洋と東洋の対立は、何ほどか緩んでいくのではないかと思います。

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以上、一気にコメントをしてみました。

翻訳家、音楽家、画家、デザイナー、鍼灸師、と、
多様なジャンルの方々にご寄稿いただきましたが、
難しいのはやはり、
それぞれの人の発想をいかに「繋ぐ」かという部分。
まとめる、のでは決してなく、ね。

コメントの中で記した私なりの連想のメモが、
お読みいただく皆さん自身のシナプス接続のちょっとした刺激になれば幸いです。

では皆さま、良い年をお迎えください。
新年は第二週、1月12日から開始、の予定です。
posted by 堀(宗教学) at 01:03| Comment(0) | シナプス接続 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月22日

「面(おもて)」の道は東洋思想に通ず?

はじめまして、私は今回から「面」の活動に参加させていただきました札幌で鍼灸をしている福田というものです。

『「問う人、つくる人をつなぐ」を合言葉に、様々なジャンル、様々な立場でアートや学問に関わっている人たちが集い、情報交換や共通言語の模索を行なっています。』

という「面」の趣旨に賛同いたしまして参加させていただきました。

というのも何となく「面」の趣旨って東洋的なもののような気がするからです。

「面」の趣旨って一言で言うと「つなぐ」ということなんだと思います、バラバラなものが実はつながっているのを見付けることなんだと思います。
(堀氏、間違っていたらゴメンナサイ!)

近代合理主義以降の西洋思想により様々なものが細分化されていったような気がします。
学問も社会のあり方も人々の生活も、もちろん大きな成果もあったわけですが失ったものもあったと思います。
これは西洋思想は「同じ」よりも「違い」を重視している為なんだと思います。

一方、東洋思想は、
(一口に東洋思想といっても中国思想、インド思想、イスラム思想とあり、中国思想一つとっても儒教思想、老荘思想など様々ありますし、西洋思想と東洋思想という分け方もどうかと思いつつ・・・独断と偏見で先に進みます。)
共通性を見出しつながっていく思想なんだと思います。

東洋思想は(中国思想を前提にしています。)陰陽理論、五行理論、十干十二支の理論などの道具を用いてリアル(真実)を表現していきます。
例えば五行理論(世界を木・火・土・金・水の五つのパターンに分けそれぞれの相互作用で世界を説明する見方)で、金は身体でいえば肺・大腸・皮膚など、味は辛味、色は白、方角は西、季節は秋など一見すると関係無いものが金という性質でつながっています。
アトピー性皮膚炎をステロイドなどで無理に抑え付けるとアトピーは治っても今まで無かった喘息が出ることがあります。
これなどは肺と皮膚が密接な関係に在ることを示していると思います。

私の専門の鍼灸で身体を観た場合、
一つ目は経絡というネットワークでのつながり。
胃をレントゲンで撮りながら胃の経絡上の足三里というツボに鍼をすると胃の働きが活発に動く様子が見れます。
胃に関係する神経は足に来ていませんのでこの現象は西洋医学ではうまく説明できないようです。 
二つ目は部分と全体の関係で部分が全体を反映しているというかたちでのつながり。
耳は胎児が頭を下にしている状態として身体全体を反映しています。
これは耳だけの特異性ではなくて手、足、お腹などすべて部分は全体を反映しています。
もちろん、手は足やお腹とは異なりますから部分は部分としての独自性ももっています。
西洋医学では手は単なる手ですが、東洋医学では手は手という部分であると同時に身体全体を反映した全体でもあり、経絡というネットワークで他の部分ともつながっています。
このように東洋医学での身体は経絡というネットワークの見方、全体が反映される部分としての見方、単なる部分としての見方など、それぞれが独立した法則で成り立つ多元的な身体です。
そしてそれぞれの次元は基本的には独立しながらもつながっています。

このような「つながり」の極致に気一元の思想というのがあります。
東洋思想の根本の考え方の一つで、これは物質も生き物も全てのものは気からできており(気によって生まれ)、気によって存在しており(気によって生かされ)、気によってつながっているというものです。
つまり全てのものは気によって一つにつながっているというか、ひとつなんです。

というわけで、「全ての道は ローマ へ通ず」ならぬ「裏道」ならぬ「面(おもて)」の道は東洋思想に通ず!でした。(笑)
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2008年12月15日

パズル

こんにちは。pockleyといいます。
いきなりですが、パズルの話。

ちまたにはいろいろな種類のパズルがあって、なかにはおそろしくリクツっぽいやつもありますよね。

僕が好きなのはそういうのじゃなくて、もっとシンプルな、ジグソーパズル。あれ、独特の楽しさですよね。ピースを手に、ああでもない、こうでもないと探りながら、配置していく。ピースどうしがうまくはまると、ニンマリ。ある絵柄の部分と、別の絵柄の部分をべつべつに作っていて、それが予期せず合体するときは、その展開にちょっと感動しちゃったり。

絵を完成させることは、いちおう目的としてあるし、自分の好きなタイプの絵じゃないとヤル気も起きないんだけれど、絵の完成自体は、ある意味どうでもいい目的なんですよね。むしろ、そこに向かうプロセスのなかに楽しさがたくさん潜んでいるわけです。

パズルと言えば、何という名前かわからないけれど、いろんな形の木片を組み合わせて、「T字」や「台形」なんかを完成させるやつ。あれもじつに楽しい。やみくもに木片を動かしているうち、ふいに形ができあがると、大感動もので、脳内でいろいろ分泌しちゃいます。以前、温泉旅館に泊まりにいったら、なぜだか部屋にそのパズルが置いてあり、夜遅くまで夢中でやってしまった。何やってんだという感じですが。

えーと、それで本題。パズル作りじゃなくても、それに似た思考って、たくさんあるような気がする、という話。

たとえば僕は、抽象的なことをモワモワと考えて、人と議論することがあるんです。そのプロセスって、パズル作りにかなり似てる気がします。断片的なアイデアがとりあえず手もとにあり、それを組み合わせていく。うまくフィットすると嬉しいし、相手が持ってきたピースと思いもよらぬ合体を遂げると快感は大きい。

それから、議論するときって、完全に「行き先不明」のケースってあまりないんですよね。むしろ「自分の向かいたいところ」が漠然とあって、それをめざして手持ちのアイデアを動員していく。それは、全体像を予期しながらピースを組み合わせていく作業と、よく似ています。

自分で文章をつくる作業も同じような感じ。ときに論文というものを書くんですが、考えがすでにすっかりまとまっているときって、論文を書く作業が、ぜんぜん楽しくないんですね。優等生的な作文を書いてる感じで。逆に、あまり考えがまとまってないうちに書き始めると、これがなかなか楽しいんです。書きながら、目的地に何とかたどりつくべく、あれこれ試していくというんでしょうか。

もちろん、それは効率性という点でみればまずいやりかたで、いちど書きあげたものをすべて削除することもしょっちゅう。しかも、ほかの人からすると、ひどく読みにくいものになっている可能性もあります。でも、文章から本人のそういった思考のプロセスが垣間見えるのって、楽しいことなんじゃないかなあ。

その昔、受験生の小論文を添削するバイトをしたことがあるんです。小論文って、いくつか掟があって、パズル的な思考のプロセスをそのまま出した文章って、基本的にダメなんですよね。むしろ、ひたすら論理、論理で、論拠やら結論やらが、きれいに整理されていることが重視される。でも添削していて、そういった「よくできた」小論文って、やっぱしどこかつまらないわけです。

大学の学生さんが書いたレポートも同じで、まとまりすぎているものは、その内容がどうであれ、読んでいてどこか楽しくない。わかりやすいけれど、ワクワクしない。むしろ、書いている途中で本人がいろいろ発見していくプロセスやら、その興奮やらが伝わるような文章は、すごく楽しい。

思考のプロセスをそのまま出すことって、すごく大事なことなのかもしれませんね。

この文章も、そういう面で成功しているといいんですが。
う〜ん、ちょっと微妙?

*************

 今週は倫理学研究者のpockleyさんに登場していただきました。
 来週もお楽しみに!
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2008年12月08日

マルボロのパッケージ

グラフィックデザイナーの菊地です。シナプス(初)です。
よろしくお願いします。
………で、早速というか折角というか、身の回りにある個人的に気になってるデザインとかポロポロ書きますね。

先ずマルボロのパッケージなんですけど僕は愛煙家歴10年弱で、マルボロとはかれこれ8年位つきあってます。

マルボロに出会うまでは某メンソールを好んでいました。で、昔々、東京へグラフィックデザイナーの松本 弦人氏の事務所へ面接に行った時に、彼が吸っていたのがマルボロだったんです。

          mal.jpg

彼自身が滅茶苦茶かっこよかったのはもちろん、その赤い屋根の箱から煙草を取り出す仕草や、机にポンと置かれたパッケージの佇まいとか、全てが恰好よかったわけです。
若かりし僕は「デザイナーはマルボロなんだ!」なんて思ったのかもしれません。そんなこんなで彼にあやかったのがきっかけとなりました。

まぁそんな出会いを抜きにしてもこのパッケージは好きです。
通常シンメトリーのデザインは男性的に見えるはずなんですが、頭文字の「M」を若干大きくしてシンメトリーを崩しているせいなのか、色の配置のせいなのか、繊細な印象も受けます。
つまりはこの小さな箱に“大胆かつ繊細”がコンパクトに実践されています。そこがいい。

で、僕なりに調べたところ、なんとこの赤いマルボロは当初「女性向け」として販売戦略をたてていたらしくて(つまりこの赤い屋根は女性の口元を表しているそうなんです!凄いっ)、当時はさっぱり売れず、途中でターゲットを180度変更、カウボーイなどを広告に用い“アメリカのスタンダードな煙草”というイメージにシフトチェンジした事が功を奏したそうです。

個人的に「好きかも〜」と思える煙草のパッケージには「憧れ」が凝縮しているような佇まいがあるんですよね。子供が思う大人への「憧れ」、日本人が思う外国への「憧れ」…。
もちろんパッケージではそんな訴求は一切していませんが、その「憧れ力」が強ければ強いほど「良いパッケージ」に見えるのは気のせいでしょうか。

現在日本では、煙草のパッケージの三分の一の面積が警告文になっていますが、それさえも想定していたような、どんなシチュエーションにも視界に飛び込んでくるこの強い赤はやはり唯一無二、もう暫く付き合いが長くなりそうではあります………。
posted by 面 at 00:00| Comment(0) | 仕事場のパンセ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月01日

有相の神、無相の神

今日から師走ということで、メンバーの皆さんも多忙のようです。
そんなわけで、またもや管理人の登場となりました。 

今日は先回の佐藤さんの記事でも神さまのことが話題になっていたこともあり、
広い意味での神イメージ、宗教学では神表象、などと言われるものについて、
少し書いてみます。

**********

様々な宗教において、人々が広い意味での神をどのように思い描いているか。
この問いに関して、次のような対比が用いられることがあります。

―― 神が何らかの姿・形のもとに思い描かれる場合と、
    そうではない場合。

たとえば脇本平也氏は『宗教学入門』(講談社学術文庫)の中で、
この対比を「有相の神」と「無相の神」という言葉で紹介しています。

前者はさほど説明を要さないでしょう。
「植物や動物の姿を有する神とか、擬人的に人間の相をそなえた神」などがこれにあたります(同書、130頁)。

他方、後者は「色なく形なく、おおよそ人間の考えうる姿や形態を超えた存在として捉えられる神」(同)、ということになります。

脇本氏はここで、
有相の神/無相の神という対比は多神教/一神教という対比とゆるやかに対応する、と解説しておられます。
氏が「概して言えば」と強調しているとおり、
大枠の議論としては、確かにそのような対応関係があると思います。

有相の神の典型として想起されるのは、
多神教の典型でもあるヒンドゥーの神々であり、
あるいは古代のギリシア、ローマ、エジプトなどの神話の中でドラマを演じる多種多様な神々でしょう。

他方、
ユダヤ教、キリスト教、イスラームの神(基本的に同一のものを指します)は、
人間の知性や想像力のフレームに収まりきらない存在だとされますので、
その「無相」性は絶えず強調されることになります。

しかしながら、私たちにとって身近な(はず)の日本のカミサマは、というと、
八百万の神と言われるように多神教の典型と見えながらも、
「有相の神」と言えるかどうかが、そう簡単には決しがたい性格を持っています。

なるほど、年賀状(用意しなきゃ!)の絵柄でもお馴染みの七福神などは、
まさに「多にして有相」の神の典型のようにも見えます。
いささか唐突ですが、「千と千尋の神隠し」に登場する神さまの表現なども、
その延長線上にあるように思います。

しかし、歴史的な過去を辿れば、
もともと日本におけるカミは、それ自体は姿・形を持たず、
ただ山川草木など有形のものに「宿る」とか「よりつく」というふうに考えられていたようです。

多種多様な神像のたぐいが作られるようになったのは、
外来の神像文化・仏像文化の影響によるものと言われています。
七福神の神々も、それぞれがインドや中国の神々をもとに造形されたものであり、少なくともルーツにおいては「外来の」神だと言われています。

このような事情から、日本の神は「多にして無相」の神である、
というふうに議論を持っていく人もいます。

しかし、これもやはり、そのように言い切ってしまうのは少し乱暴でしょう。
有形のものに無形のカミが宿る、という古来の考え方は、
外来の神像文化・仏像文化を受け入れていく過程で失われたわけではなく、
むしろその受容の素地として、多少とも生き続けたはずです。

根底的には無相性を前提としつつ、
あらゆる姿・形を「仮のもの」として受け入れるというような、
いささか入り組んだタイプの神表象の伝統が、
日本にはあるのかもしれません(もちろん、それが日本に独自だとは限りません)。

いまだぼんやりとした思いつきのレベルですが、
このあたりの問題、少しずつ突き詰めていきたいと思っています。

※ 今回の記事から、コメントを受け付けます。
   持ち回り式のため、筆者による応答が滞ることもあるかもしれませんが、
   その点はご容赦ください。
posted by 堀(宗教学) at 01:01| Comment(2) | 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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