2008年11月24日

いっぽいっぽ

私は11月の頭に札幌で個展を開いてたんです。
いい展示でしたが、一個人としての自分を見直す大きなキッカケにもなりました。
コアになる『絵描き』として、自分で認め歩む。よく考えたら、自分で自分を知るって難しくない?
ひとつカードが開けば、あれやこれパタパタその他も開いて繋がっていくので
頭が付いていかず少々疲れてます。人として未熟なのは分かりきっていても、どこがどう未熟なのか、
まるで赤点だらけのテストが7教科全部帰ってきたような衝撃。
中々起きられないベッドやコタツのなかで一週間は死人のようでした。
自分を知ることは、こんなにも疲れることだとは・・・。
過去にもあっただろうに、しんどいことはすぐ忘れるんだよなぁー

絵を観てもらうために、親しんでもらうために
早い話、人になめられていたんじゃやってられないのです。
女だから?20代だから?若手だから?そもそも私がアホな佐藤さんだから?
あーもーそういうの一切ヤなんだよーぅ!馬鹿にされるような作品はつくってないぞーっ!!

絵描きと名乗ること。作品を見てもらうこと。
自分の場合、世界はそこから始まるんですが
支えるのもだめにするのも、私の心しだい。分かってるんですけどね。
うまくやれりゃあ苦労しないんですよね。

世界が広がれば、それだけいいことも悪いこともある。
けど馬鹿な私は、瞬時にまだ見分けが付かなくてたまに色々嫌になったりするんです。
絵を描くのは嫌いにならないのが救い。
描いていれば、救われますし、先へ伸びて行ける。
親切な人が諭してくれても「上から目線でモノいいやがって」なんて内心毒づいてるガキっぽいところは治らず
また親切に寄りかかりすぎて、皆をガッカリさせたりそんなことばかり。
結局痛い目に遭わなけりゃわかんない。
人が悪いんじゃない。
受け止める自分次第なんだよと毎度毎度覚えては忘れるの繰り返しです。
いちいち、出していかなければならない「答え」。
ひとつでも多くここから見つけ出したい。

なので、最近制作のためこもるのがいい感じ。自己にダイビングしていくのと似てる気がする。
面の堀さんが個展で「こもるのは宗教的にもいいことなんだよ。チャンネルを開くいい行動なんだって」と教えてくれた。
ちなみに私自身は無宗教です。お寺とか仏像とか、それから聖書なんかも好きでよみますが、どこどこの神様が一番などは取り立てて考えてません。
ただ神様は、すくなくとも「わたしのカミサマ」はいる気がしてならないんですね。
多少ブスでも…すごいブスでもよく笑い、
泣いて喋って、人をハッピーにさせる絵を生んで、同じ嘘でも人を傷つけない程度のウソをつくにとどめて
よく食べ、ある程度人やものには優しくしておけば大体OKで、陰口たたかず直接いえる悪口を腰据えていえるぐらいの度胸で暮らし
いつも自分と逃げずに見合っていれば (絵を描いていれば)
カミサマそうそう見放したりしないんじゃないかな。
運命とも言い換えられるもかもしれないし多分きっとそうだ。

年のわりに子ども臭く、一般常識もしらない27歳11ヶ月。
身体は年をとっていきます。しかし幸いなのは、心も技術も年をとらないことかな。
「もう若くないから」の言葉を言う人間は、その言葉を吐く口から老いていくんだろうと思う。
あたしの好きな人たちは、年齢の話で誤魔化したりしません。
逆に、若いからバカにされるのか?若いから色々仕方がないのかというのもきっと違って
年齢で測ろうとするのこそかっこ悪いんであって
「ガキだろうがババアだろうが、てめーはてめーだろーが!」
そういう声が天から聞こえるので耳が痛い。

私は果たしてどうかと問われたら、絶対そうならないぞと誓うのが大切な自分への礼儀ですよね。
腹のそこじゃそう思ってないくせに、あんまりへりくだって自分を軽くするのはあんまりいいことじゃない。
だって当然未来があって、そのために絵を描き続けていかなくてはならないからです。
外から来るうまい話より、自分の足で大きな一歩を歩みたい。
ある日突然降ってくる「いい話」に舞い上がり、それに食いついては落胆するのはそろそろやめたいな・・・。

人は成長できる。これほど救われる話はないと思っています。
絵も素敵になっていけるだけの余白が沢山あることは、そのまんま希望に繋がります。
だから生きていてなんだかんだで楽しかったりします。
なるべく健康的に長生きしたいです。
きっとすこぶる手ごわく、実は可愛い絵描きさんに。
たとえ明日死んじゃっても、ずっと歩んでいけるタフな作品をつくりたいです。

**********
   今週登場してくれたのは、絵描きの佐藤久美子さんでした。
   作品未見の方はぜひ、佐藤さんのブログを御覧ください! (堀)
posted by 面 at 01:50| 仕事場のパンセ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月17日

メーと鳴くロバの話。

社会学者のジョン・モリオールによれば、「ユーモア的笑い」の大半は、
われわれが平素用いている「世界図式」とのズレを伴うような経験
によって引き起こされる、といいます(『ユーモア社会を求めて』新曜社)。

禅関連の書物を拾い読みしていると、しばしば、
まさにモリオール言うところのユーモアの好例と思える一節につきあたります。

たとえば『臨済宗』の中の、有名なエピソード。

臨済院に現れた風狂の禅僧、普化(ふけ)。
生野菜をがつがつとたいらげるその様子に、臨済は唖然。
そこから始まる二人の応酬を、
柳田聖山著『禅思想』は次のように紹介しています。

  臨済は思わず言った、
  「きさまの食い方、まるで驢馬だ」。
  普化はうしろにさがって両手を地につくと、
  一声「メー」となく。
  臨済は何も言わぬ。
  普化の方がいう、「小僧め、片目しかない。」

驢馬みたい、と言われて即座に「メー」と切り返す、このセンス。
さらに悪乗りしてちょっと手を加えれば、
これはそのまま漫才のネタとしても通用しそうです。
沈黙するしかなかった臨済の限界を、
タカトシあたりにぜひ、軽々と超えてもらいたい。

  臨済:「その食い方・・・オマエは驢馬か!」
  普化:「メエエエ」
  臨済:「・・・って、ヤギかいっ!!」
  普化:「ニンジンちょうだい」
  (以下、延々と続く)

このように、更なるバカバカしい展開を想像したくなる柳田版の紹介、
『臨済録』をお読みになった方ならお気づきでしょうが、
実は、原典に忠実ではありません。

臨済から「大似一頭驢(大いに一頭の驢馬に似たり)」と言われた普化の応答は、
「便作驢鳴(すなわち驢鳴をなす)」。
驢馬の鳴き声を立てた、というだけのものです。

念のため、驢馬の声を聴けるサイトで確認しましたが、
どう聴いても「メー」とは表記しがたい音声です。

著者、故・柳田聖山氏は、言わずとしれた禅思想史研究の第一人者。
これはまあ、弘法も筆の誤り、というべきたぐいのものなのかもしれませんが、
禅思想の精髄を知る著者のこと、
敢えて原典にもう一ひねり加えることで、
いっそう原典の息遣いに近づけると考えたのでは?
との憶測も排除できません。

あるいは、原典における「驢」とは、
私たちの言うロバとは別の動物ではないか、との疑念もありますが、
それを支持する証拠には、今のところ行き当たっていません。

いずれにせよ、
モリオール言うところの「世界図式」の脱臼をうながす点において、
ある種の笑いと禅思想とはかすかに触れ合うにちがいない、と考える私は、
入矢義高氏の行き届いた訳注による『臨済録』(岩波文庫)を手にした今でも、
メーと鳴くロバの映像を頭から追い払うことができずにいるのです。
posted by 堀(宗教学) at 03:15| 問いの小窓 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月10日

トランペットに目覚める

   今回は「面」に草創期から参加してくださっているトランペット奏者、
   古畑亜紀さんのWeb日記から、
   管理人が感銘を受けた記事を転載させていただきます。

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トランペットに目覚めたらしくて、わたしは幸せである☆

なぜか調子もよいのだった…。


心は楽器なんだとつくづく思う。


私はピカピカ&りんりんと吹きたいのだった。
芸には柔軟性やバリエーションも必要。
でも今日のテーマは単純に『りんりんと』です☆


理想に燃える(笑)。


現実との折衷案であっても、そこに大きな夢がなくては、
音楽が商売道具のみになってしまえば、ただ心が悲しいじゃないか。
折衷案であれば適当な取り組みでよいとゆうのも違う。
その案にはその案を、ベストな形にしあげるための技術があるからだ。
私はその技術を磨くのも好きである。


神の前ではすべてが平等、とゆう発想が西洋クラシックのルーツ。わたしは他のなにかを見下す感じがあたりまえな、クラシック系の輩はかんじんなルーツが理解できていないとみている。
よって、それが知的とも高尚とも芸術的とも実は思わない。
見下すためのクラシックじゃない。

そうゆうの、他のジャンルにもいるけど。
言い過ぎてすみませんが。


私がクラシックを通して学んだのは、平等とゆう精神の大切さです。


音楽のチケットをかうひとは、ものを買っているんじゃなくて、夢を求めていると思う。私はそうだな。


どんなものにも最高の形があると私は思う。。

『まだましである、ではなくいつも最高を。』


ポンペルガー先生に言われた言葉です!
なんかりんりん気分まんぱいだ。
朝にかく日記でした☆

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   以上、10月10日の日記から、
   ご本人の承諾を得て転載させていただきました。
   NHKの番組ではないですが、プロフェッショナルって、
   こんな風に何度も初心に返って「目覚める」ことのできる人
   のことを言うのかもしれない、と思いました。
   きっと何の仕事でも通じることですね。

   ⇒ 古畑さんの公式ブログはこちら
      Web日記はこちら
      ソロアルバムの情報は上記公式ブログの他、こちらにもあります。
posted by 面 at 00:00| 仕事場のパンセ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月03日

腰痛対策

時折、翻訳業務を行なっています、こにりょ、と申します。翻訳は、一人でもくもくと行なう仕事なので、どうすれば心身ともに快適に仕事ができるか、いつもいろいろと考えています。とはいえ、まだ自分のスタイルは見つかりません。

大きな仕事が入ると、一日の多くの時間を座って過ごすということが続きますので、結構腰に負担がかかります。それは座り仕事を行なう人にとって共通の悩みかと思いますが、締め切り前にぎっくり腰にでもなったら、と時々不安に思うこともあります。

『ダ・ヴィンチ・コード』の作者ダン・ブラウンのインタビューで読んだのですが、彼は一時間おきにストレッチをしているそうで、さすがは人気作家、体調のことには気を使っているなと感心しました。

さて、私もそうしようかと思ったのですが、一時間経ったのをすぐ忘れてしまいます。で、CDを一枚かけて音楽が終わったらストレッチ、そしてまた別のCDを、というリズムでやろうと思ったのですが、音楽に気をとられてどうにも集中力が減退してしまいました。好みの音楽をかけるのがよくないのか。逆効果です。

聞いた話では、といってもどこで聞いたのかすっかり忘れてしまいましたが、「翻訳にはバッハがいい」というのを小耳にはさんだので、しばらくバッハのオルガン曲を流していたことがあります。うねうねした流れが脳みその隙間にはまり込むようで、悪くはありませんでした。しかし、しばらくかけているうちに、すごく気に入った曲ができたりして、それが流れると注意がそっちにいったりして、また、もとの木阿弥でした。

そのうち、なぜ翻訳にバッハがいいのか、バッハじゃなくて、ベートーベンならだめとでもいうのか、クラシックだけではなくて、ロックなら、ジャズなら、といった疑問がいろいろと沸いてきて、いろいろ試しているうちに、いつのまにかストレッチのことをすっかり忘れてしまうし、さらには仕事どころじゃなくなってしまいました。

このところはあまり時間にこだわらずに、気が向いたときにストレッチしています。調子は上々です。
posted by こにりょ at 00:33| 仕事場のパンセ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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